私の相続物語:2000坪を未来につなぐ②

相続事業継承

父のがん発覚から半年で事業承継
大阪府吹田市の2000坪を未来につなぐ

丼勘定で経営した祖父 データをまとめ、整理した父 

 87年に吉田オーナーが誕生した直後、88年に曾祖父が亡くなり、吉田家の不動産の経営は祖父に引き継がれた。祖父が2004年ごろまで経営を担い、それ以降は父が引き継いだ。吉田オーナーは生まれた頃からこのエリアで育ち、祖父や父の経営スタイルを肌で感じてきたという。「祖父は丼勘定で経営することもありましたが、地域活動では影響力のある勢いがある人でした。これに対して父は細やかな人。地元の会社で経理をしていた経験を生かしてまめに帳簿をつけ、不明朗な支出は顧問税理士に確認するなど、健全な経営状況に近づけていきました」(吉田オーナー)

 吉田家の敷地の近くには、「太陽の塔」がある。地主だった吉田家は、この地域の皆が知っているような家だった。「私がまちを歩くと、周りの人はみな吉田の家の長男だとわかる。そんな環境で育ったのと、祖父からよく『お前は吉田家の長男や』と言われていたのでいつか自分がこの土地を守っていくのだろうなと漠然と感じていました」と吉田オーナーは振り返る。

急ながん宣告が転機 父と二人三脚で承継進める 

 いつかは家業に入るのだとしても、若いうちは企業で働きたい。父がそうしたように、吉田オーナーも10年の大学卒業後は大阪府内の機械部品メーカーに就職した。その後の10年間で2度の転勤と自身の結婚を経験。人並みの苦労をしながらも穏やかな日々を送っていたという。その頃の父はまだ60歳をすぎたぐらいで、精力的に賃貸経営を行っていたため、吉田オーナーはもう少し社会人として外で働くつもりでいた。しかし、転機は突然訪れた。

 19年2月に吉田オーナーに長男が誕生したわずか半年後の同年8月。父から、父自身が食道がんのステージ4であること、母も乳がんが再発したこと、祖母がアルツハイマー病を発症したことを一気に告げられたのである。「悪いことが一度に起こりすぎて、頭がついていかなかったのを覚えています」と話す吉田オーナー。

 吉田オーナーだけでなく、父にとっても想定外の出来事だったようだ。その時は少し声がかすれる程度の自覚症状しかなかった父は、まさか自分が大病を患っているとはつゆほども思わず、何かがあったとき時の事業承継についてなどまだ何も決めていなかった。

勤め先の会長のサポート 知識を得られる業務に異動 

 秋が来た頃父は周囲に対して、治ると疑っていない態度を見せ続けたという。しかし、吉田オーナーは後に父のパソコンを整理した際に、父ががん告知直後に顧問税理士に事業承継について相談していたことを知る。家族に弱音を吐かなかったその裏で、父は事業承継を急ピッチで始めていたのである。

 父は、すり減っていた実印を新しいものに変更し、顧問税理士と司法書士に息子である吉田オーナーを会わせた。19年の秋には法人の役員にすらなっていなかった吉田オーナー。顧問税理士らが「いずれ事業を承継するのなら、まずは役員として法人に関与させたほうがいい」とアドバイスをしたので、急いで役員登用手続きを進めていった。

 この時、吉田オーナーが不安だったのが今の勤め先にこのまま勤め続けられるのかということだった。会社に相談すると、実は会長自身も地主の家の生まれだったことが判明。すぐに状況を理解してもらえ、家業をメインに会社勤めも続けることになった。そのうえ、管理部門への異動も実現した。「会長は『管理部門では経理も法務も経験できる。本社の所有物件の管理・修繕や経理処理、契約関係の法務にも携われるので、いい勉強になるだろう』と言ってくれました。この恩は忘れません」(吉田オーナー)

遺言書を作れず口頭で伝える 一切もめずに相続完了 

 残念なことに、がん告知から4カ月で父の病状はかなり悪化した。20年1月1日、父は吉田オーナーと、弟、妹の3人を呼び、財産の配分について伝えた。金融資産と土地一覧と建物一覧、そして見取り図。父はその場にしっかりと書面を用意していた。「もう遺言書を書く時間はない。今から説明するから、そのとおりに分けろ」と子どもたちに話した。

 その結果、吉田オーナーが主な不動産の経営を受け継ぐこととなった。弟と妹2人ともすぐに納得。「私たちきょうだいは、不仲ではありませんでしたが、日頃からよく連絡を取り合うような仲良しきょうだいではありません。しかし、父母の病気をきっかけによく話すようになっていました。大人としての信頼関係を築けていたのも、互いを思いやる気持ちがあったからだと思います」(吉田オーナー)

 遺産配分を決めた後、2月10日に父は亡くなった。1月1日の親子の対話からわずか40日ほどのことだ。手続きは煩雑だったが、「父からそのときに受け取った金融資産と不動産の一覧があったため、 例えば、金融資産はどの銀行で手続きをすればよいかが一目で分かりとても助かりました」と吉田オーナーは振り返る。年始に決めたとおりにきょうだいで遺産を分割した。親族間でのもめ事や、配分で困ることは一切なかったという。今後も一族で協力し合える体制も、父が残した大きな財産だった。

自治会でコミュニケーション エリアに役立つ不動産を模索 

 同じ年の9月、母も亡くなった。悲しむ間もなく吉田オーナーは実家に引っ越して本格的に家業を引き継いだ。

 怒濤の数カ月を経て不動産経営を引き継ぐことになったものの、勤め先から理解が得られ、きょうだいは協力的、顧問税理士や司法書士も信頼できる恵まれた環境で不動産経営者としてスタートを切ることができた吉田オーナー。父が亡くなる前年の19年に建てたマンションの収支もよく、法人の経営は黒字で推移している。

 父の経営を学ぶため、吉田オーナーが時折開くのは父の残したパソコンだ。経理担当者だった父らしい、よく整理された収支報告書を眺めながら、自分も父のように数字をよく見る経営をしたいと思いを新たにするという。

▲父は細やかに情報を整理していた

 代々の地主の家の当主として実家に戻ってからは、これまでよりも地域の今後のことを考えるようになった。自治会にも積極的に顔を出している。古くから住んでいる人と新しく住むようになった人とをつなぐような役割を担いたいと考えている。所有地の活用を通して、地域の人が出会えるような場所を増やしていくのが今後の目標だ。

 家業を継いで吉田オーナーは、家や地域の歴史をひもといたり現状を分析したりした。その結果改めて感じたのは、エリアに暮らす人々のつながりがだんだんと薄れていくことで、暮らしが空虚なものになってしまうのではないかという問題だった。「古い日本家屋は維持管理コストが大きいため取り壊さざるを得ず、跡地は賃貸住宅に変わってきています。新たに住み始めた人は地元に溶け込む機会がなく『ただ家が山田エリアにあるだけ』の状態です。吉田家はいわばこの地に生かされてきた家です。引き継いだからには、この地域に貢献していきたいと思います」(吉田オーナー)

 「ここからの数年は、築50年を超えた、吉田家が最初に建てたマンションの改修や建て替えについて考えていきたいです。所有する土地を生かして、人がつながりあえる場所をつくることが今後の目標です」と語る吉田オーナーは地主として、地域のこの先を見据えている。

(2025年 5月号掲載)
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