<<不動産トラブルはこう裁かれた>>
実は他人事ではない不動産を巡るトホホな事件を紹介します
第1回
「善意」で貸した土地を巡る70年紛争、地主が敗北したわけ
◼戦後の混迷期の「善意」が生んだ紛争
戦後間もない混迷期の東京。地主だった大久保利信氏は、地元の西郷太郎代議士に、税金分さえ支払ってもらえればいいという善意だけで土地を貸しました。
ところが西郷代議士の死後、西郷家の相続人たちは「自分たちには賃借権がある」と言い出し、土地の明渡しに応じなくなります。困り果てた大久保家は、民事調停の末に正式な借地契約を結び直しました。ここには、「増改築には地主の書面による事前承諾が必要」という特約と、「信頼関係を破壊したときは、催告なしに契約を解除できる」という特約が盛り込まれました。
数年が経ち、借地権を引き継いだ松平社が土地上の建物を買い取り、『ホテルつる』というラブホテルの経営を始めました。しかし開業から2年後、賃料の算定方法を巡る対立が始まり、以後20年以上に及ぶ紛争に発展します。
そして2018(平成30)年ごろ、松平社は大久保家に事前の相談をすることなく、改修工事に踏み切りました。正面玄関の位置変更、外壁の全面塗装、屋根材の追加など総額7200万円をかけた大規模な工事でした。翌年になって大久保家の1人が現地を訪れた際、建物の外観が様変わりしていることに気付きます。「無断で増改築された」「もはや信頼関係は破壊された」として、大久保家側は契約解除の意思表示をしたうえで、建物の収去と土地の明渡しなどを求めて東京地方裁判所に提訴したのです。
◼借地人の反論― 「改築」も「破壊」もない
原告側(大久保家)は、出入り口の変更工事が建物の躯体である鉄筋コンクリートの壁そのものに手を加えるものであり、耐候性の高い屋根材や塗料の使用と合わせて建物の耐用年数を延ばす行為に当たると主張しました。
また、大規模な改修によって建物の外観が一新され、従来のラブホテルから幅広い客層を狙うホテルへと利用態様が転換したことで、建物の経済的価値・利用価値が高まっており、大久保家にとって著しい不利益だと訴えました。
それに加えて、21年間にわたり賃料減額を一方的に押し通されてきた経緯から両者の信頼関係はすでに大きく毀損されており、そこに無断工事が重なった以上、信頼関係は完全に破壊されたとも主張しました。
他方で、松平側は「改装」であり「改築」には当たらないと反論。賃料を巡る紛争も適法な権利行使であり、08(平成20)年の清算後は、12年以上滞納なく支払いを続け、信頼関係は回復していると主張しました。

◼大久保家の完全敗訴―そこから何が見えるか
東京地裁は、まず「増改築禁止特約」が置かれた趣旨は、建物の耐用年数が延びることで借地権の存続期間が事実上伸長したり、将来の建物買取請求で地主の負担が増大したりする不利益を防ぐためのもので、判断基準は「見た目が変わったかどうか」ではなく「建物の寿命が実際に延びたかどうか」にあるとしました。
そして、出入り口の変更が建物の耐久性に影響を与えたとまでは認められない、屋根工事についても、建物本体の陸屋根には手を加えていないため建物全体の耐用年数を左右するものではない、外壁の塗装も建物の外観を維持・保全するための通常の管理行為の範囲内で特別に建物の寿命を延ばすものとは認められない―。このように東京地裁は「改築」であるとの原告側の主張を退けました。
また、21年に及ぶ賃料を巡る対立は、法律上認められた増減額請求権の行使の範囲を出ておらず、08年の清算以降は賃料を支払い続けている以上、賃貸借契約の継続を困難にするほどの信頼関係の毀損があったとは認められないとしました。
その結果、大久保家の請求はすべて棄却され、松平社のホテルは費用をかけて生まれ変わった姿のまま、営業を続けることになったのです。
東京地裁の判断には、モヤモヤが残るかもしれません。しかし、賃料に関する紛争はいったん訴訟で解決済みとなっているのであれば「信頼関係の破壊」はないという認定は不自然ではないでしょう。「増改築禁止特約」についても、あくまで「建物の耐用年数が実際に延びたか」「借地権の存続期間に影響が生じたか」という専門的で立証のハードルが高い基準で判断されることになります。感覚的な「勝手にやられた」という怒りだけでは、裁判所を動かすことはできない点が身につまされる事件です。口約束から始まった関係が、何十年も後に法律の物差しでしか測れなくなる―。それは大久保家だけの話ではなく、今も全国の地主が抱えている現実かもしれません。
※東京地方裁判所令和5年1月17日判決を参考に一部事案を改変しています。
※登場人物、社名、建物名はすべて仮名です。
牧野総合法律事務所弁護士法人(東京都千代田区)
牧野剛弁護士

[プロフィール]
不動産やIT、企業法務、相続などの問題に対応。元J-CASTニュース記者、元東京地裁民事調停官(2021~25年)
(2026年9月号掲載)



