テナントとの会話をきっかけにシェアオフィスを展開

賃貸経営店舗・オフィス

<<ビルオーナー物語>>

スタートアップ向けのコワーキングビル
テナントと共に成長し事業を飛躍させる

若い起業家など「オフィス入居未満」のテナントを集客する独自のオフィスビル運営プロジェクト「BIRTH(バース)」の事業展開で、全国のビルオーナーや地方自治体からも注目されているのがTAKAGIグループ/髙木ビル(東京都港区)だ。同社の代表取締役である髙木秀邦氏は、元ミュージシャンという異色の3代目経営者。アーティストならではともいえる斬新な発想で、祖父、そして父から受け継いだビル事業を発展させている。

TAKAGIグループ/髙木ビル(東京都港区)
髙木秀邦代表取締役

 髙木ビルが展開しているBIRTHは、オフィスを「小口化」してシェアオフィスとし、スタートアップ企業などを経営する起業家向けに貸し出すプロジェクトだ。現在、東京の神田と麻布十番、そして虎ノ門にある3棟の自社ビルを使って展開している。いずれも、フリーワーキングエリアと小規模な個室オフィスを備えているのが特徴だ。

 髙木氏がこうした貸し出し方を始めたきっかけは、テナントとして入居していた若い起業家との会話だった。

 当時、日本は東日本大震災から復興しているさなかだった。この災害では、髙木ビルも少なからず影響を受けていた。特に、東京・西新宿に所有するビルのテナントは12軒中9軒も退去があったほどだ。その後はビルの空室について問い合わせをしてくる企業の数も少しずつ増えていったが、与信の悪い企業や起業直後の企業が多かった。過去の自分なら書類を見て門前払いしていたタイプの企業だが、一度会って話をすることにした。

 「話を聞くと、彼らが熱い思いを持って事業を行っていることがわかったのです。直接会うことで応援したくなりました」。もちろん、空室が埋まるという経営上のメリットもある。あえてスタートアップ企業に優先的に入居してもらうようにした。

 そんなある日、テナントの保証会社だった日商保(同)から「次世代型出世ビルプロジェクト」に協力してくれないかと声がかかった。同プロジェクトは、当時日商保が行っていたテナント向けの保証金減額サービス「保証金半額くん」を利用することで入居時の保証金を半額にするもの。同サービスを利用する際にかかる保証委託料をオーナー側が負担することで、スタートアップ企業が成長に伴ってオフィス移転をする際にネックとなる費用負担を軽減し、彼らの成長を止めないための手助けをしようというものだ。

 ハード面以外で髙木ビルとしての価値を持たせたいと考えていた髙木氏は、所有する「虎の門髙木ビル」をこのプロジェクトの第1号ビルとして貸し出し始めた。

 同プロジェクトで知り合った若手の起業家たちと話をしていると、彼らはこう口をそろえた。「ビルに入るまでが本当に大変」。事業を成長させたいが、オフィスに入ろうとしても断られ続けることが多いというのだ。

 「私は『ビルオーナー』ですから、テナントとは入居してから付き合いが始まります。そのため、テナントとして入るまでにそうした苦労があることを初めて実感しました」と髙木氏は振り返る。一方で「これからビルに入りたい」層をつかむことは、将来的な自社ビルテナントを育てることなのではないかと思った。

 そこで2016年、神田にあった「NK第一ビル(現・神田髙木ビル)」を取得。6~7階部分をフリーワーキングスペースと7~17㎡程度の小規模な個室オフィスにリノベーションし、スタートアップ企業などのテナントが入りやすい「BIRTH KANDA」として生まれ変わらせた。ブランド名のBIRTHは、ビルから新しいものを共に生み出そうという思いが込められている。単にハード部分を貸し出すだけでなく、テナント同士をつなぐ交流会を開くなどしてテナントの成長に伴走する企画も開催した。


 18年には麻布十番に9階建てのビルを取得。一棟丸ごとBIRTHのコンセプトに沿ってリノベした同物件は「BIRTH LAB」と名付けた。シェアキッチンや撮影スタジオ、イベントスペースも備えたコワーキングスペースとオフィスビルだ。神田より規模の大きな個室を用意することで、神田で成長した企業が次に入居する受け皿ともなる。

 「神田で生まれた企業が麻布十番に移ってくる時は、移転のコストがかからないよう、ワーキングスペースの利用契約をそのまま適用して、賃料を二重に支払う時期をなくすなど、金銭的な負担で彼らの成長を止めることがないようにサポートしています」(髙木氏)

祖父の教えは「無理をしない」 堅実な経営で土台を築く

 「こうしたプロジェクトを手がけられたのも、先祖から多くのものを受け継ぐことができる立場だったからだ」と髙木氏は言う。現在、同社は東京メトロ銀座線虎ノ門駅から徒歩3分の場所にある地上10階建ての虎の門髙木ビルに本社を構えながら、銀座や茅場町、新宿、武蔵境など都内に11棟のビルを所有、経営している。だが、髙木家のビル経営は戦後に所有していた土地の95%を失うところから始まったのだという。

 「髙木家は東京都の郊外、府中の地主でした。第2次世界大戦後の農地改革で農地はすべて収用されてしまい、手元に残ったのは、都内に点在した貸家や駐車場として貸していた土地だけでした」(髙木氏)

 先祖代々受け継いだ土地の大部分を一瞬にして失う経験をした祖父の秀男氏は、わずかに残った土地で髙木家を支えていくためには単なる土地貸しではなく、より収益を上げられるビル経営へのシフトが必要だと考えた。とはいえ、時代は戦後の混乱期。しばらくは貸家や駐車場として活用しながら家を支え、一方では親戚間で共有となっている部分を解消するなど、残された土地を整理していった。

 1961年には髙木ビルとして法人化。しかし、土地の整理はなかなか進まず、ようやく第1号ビルの虎の門髙木ビルが竣工したのは70年のことだった。戦後25年にあたる年に、髙木ビルのビル経営がスタートした。

▲髙木ビルの最初の物件は祖父の忍耐と努力の結晶ともいえる

 まさに「石の上にも10年」とでもいうような粘り強さで髙木ビルの基礎を築いた秀男氏の教えは「無理をしない」ことだった。子孫のために資産を保全する気持ちから、その後の10年間は新規のビルを手がけることはなかった。

 しかし、バブル経済期の好景気の波は着実に髙木ビルにも押し寄せてきた。土地を所有していればいくらでも融資を受けられる、そうした状況を背景に、秀男氏から事業を受け継いだ、父である2代目の邦夫氏は、80年から新築のビルを次々と竣工していった。その数、13年間で7棟。とはいえ、決してバブルに踊らされていたわけではなかった。

 髙木氏は「父、邦夫は周囲から『臆病』と評されるくらい堅実な人物でした」と言う。新規で土地を購入することはなく、すべて手元にあった土地で新築を進めた。新築物件には1階のテナントに銀行を誘致。建設協力金を使うことで、融資の額を抑えた。結果として、短期間で返済を行い、早い段階で無借金経営を実現することができた。

 その後、90年代に入りバブル経済は崩壊。多くの不動産会社が倒産していったが、堅実な財務内容の同社はこの経済危機を乗り切ったのだった。

(2025年8月号掲載)
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3代目として経営哲学を承継しながら新しい価値の創造

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