<<老舗企業の葛藤>>
百五十年続く老舗5代目社長の挑戦
所有ビルを巡るテナントとの交渉
長野県松本市。駅を出て目の前に見えるビルが、赤羽ビルだ。所有者の赤羽産業グループは地元で150年の歴史を持つ老舗。5代目の赤羽英次郎社長は今、このビルの未来をめぐって決断を迫られている。15億〜20億円を投じた大改修か、現状維持か、それとも建て替えか。1872年の創業から松本の地で家業を守り継いできた一族は、大きな転機を迎えようとしている。
赤羽産業(長野県松本市)
5代目社長 赤羽英次郎氏

一人の人生だったら勝ち負けになる
けれど、ファミリービジネスとしてやっていけば
トータルでは負けはない
未来への不安
JR中央本線松本駅の改札を抜けロータリーに出ると、地上11階、地下1階建てのビルが視界に飛び込んでくる。これが赤羽ビルだ。1982年竣工、延べ床面積約9万6000㎡、ホテルとして客室数160室と宴会場を有する。松本駅目の前という好立地だ。
1階の一部には複数の居酒屋からなるテナントが入るが、メインは11フロアにわたり建物のほぼ全域を占めているホテルだ。かつては「東急」ブランドのホテルとして、地元の婚礼やビジネス客でにぎわった。ピアノの生演奏が流れるバー、格式高いレストラン。「松本でホテルウェディングといえば、ここ」と言われていたという。
しかし2017年、東急ホテルズが撤退。竣工時からの35年間のパートナーシップは終わりを告げた。その後を引き継いだのが、地元大手企業のアルピコグループだ。赤羽ビルは「アルピコプラザホテル」として再スタートを切った。ただ、赤羽社長の胸には「未来が見えない」という不安がある。それは築40年超という建物の年齢と、そしてテナントとの関係性に起因する。
テナント側の答えは「ノー」
24年夏。ビル所有者の赤羽社長は15億〜20億円規模の大改修プランを、ホテルを運営するアルピコグループ側に提示した。
「半年間休業して、通常のリフォームはもちろん、客室棟の天井を落とし配管を全部やり直して、ユニットバスを全交換。通常は手を付けないことが多い窓サッシも替える提案です。客室だけ見れば、ほぼ新築です」(赤羽社長)
当初の予算は16億円。しかし建築単価高騰により、費用は20億円近くに膨らむ見込みだ。アルピコグループ側にも建設協力金名目で2億円と、半年間の営業保証なしの休業への協力を打診。しかしそれでも、赤羽社長にはアルピコグループと同社双方に利があると確信があった。
「築40年を超えた赤羽ビルをしっかりとメンテナンスし、もう20年、30年使おうという話です。リニューアルにより客室単価は上がるでしょう。その結果、当社が受け取る賃料も上がり、両者にとってプラスになります。また今般の工事は躯体ではなく大部分が設備工事になります。そのため、15年の期間で減価償却を大きく計上できます。支払う税金が抑えられキャッシュフローが良くなるため、結果的に返済原資も確保でき、当社財務にとってもメリットがあります」(赤羽社長)
しかし、アルピコグループ側の答えは「ノー」。その理由はこうだ。「駅前再開発の姿が見えない中で、非再開発案件には投資できない」。親会社のアルピコホールディングスは、松本駅前の大規模再開発に本腰を入れている。そのタイミングで再開発とは別方向の動きになるビルのリニューアルに巨額を投じるわけにはいかなかった。
「でも、」と赤羽社長は言葉を選びながら、静かに続けた。「再開発は今日や明日の話じゃないんです。最低でも5年、どうやっても10年くらいはかかると思います。その間もビルはどんどん劣化してしまう。待っていると取り返しがつかなくなる可能性もある。再開発についても、建設費の高騰や金利上昇から関係者の合意形成が長期化し、不確実性も高まっていることを踏まえると、この改修は今やるべきなのです」(赤羽社長)
大改修が拒否されたのち、24年11月ごろからは賃料交渉も行われた。赤羽社長側は当初の月額賃料から約10%の増額を求めたが、これは交渉の結果、3・5%増額でいったんは妥結したという。
「このホテルの規模と立地で、これまでの坪単価は安い」という赤羽社長。根拠を示すために顧問であるホテル経営のプロフェッショナルにヒアリングし、賃料を算定。「現行より1~2割は増額できる」という根拠となる専門家の意見書を武器に交渉を続けている。また大規模改修についても、依然として交渉は継続されている。
さらに、契約形態についても大きな課題を抱えていると赤羽社長は言う。アルピコグループ側との賃貸借契約の形態は「普通借家契約」。10年契約で、27年で満了を迎える予定となっている。当初5年間の賃料固定期間を経て、3年ごとの賃料更改という契約だ。赤羽社長は当初、定期借家契約を望んでいたが、東急撤退のショックで判断を誤ったと振り返る。
「弱ってたんです、東急に出ていかれて。定期借家にしたら、10年たったら終わりになってしまうかなと。そこで普通借家にしてしまったことが、痛恨の失敗でした」(赤羽社長)
定期借家契約では、期間満了時の退去はオーナー側である程度コントロール可能だが、普通借家契約では難しい。「自分のビルなのに、自分で決められない」。これが赤羽社長のビル経営の大きな失敗だったという。
待っていると取り返しがつかなくなる可能性もある
この改修は今やるべきなのです
地主というより商人
赤羽ビルという駅前大型ビルを所有する赤羽産業グループだが、主力事業は不動産事業ではない。「地主というより、商人の家」だと、赤羽社長は言う。
「『土から口まで』と掲げています。肥料商として、肥料や土壌改良材の『土』のための肥料の販売。そして飼料商としての飼料販売業や、子会社で手がけるお米の集荷とライスセンター(お米の乾燥調製業)事業。これらを『グリーンビジネス』と定義しています。ここに、将来的には農業法人や畜産経営を加えていき、販売から生産まで網羅することで『土から口まで』を完成し、地域ナンバーワンのグリーン関連企業グループにらることを目指しています。またグリーンビジネスと不動産経営、この全く異なる商売を行うことで社会情勢の変化に強い企業グループになると考えています」(赤羽社長)
赤羽産業の主力事業はこのグリーンビジネスと、セメントなどの建設資材販売だ。25年度の商事業売り上げは26億円。これにグループの不動産会社の売り上げ2・8億円とライスセンター運営会社の売り上げ1・2億円を合わせて、グループ全体で約30億円の売り上げだ。
「社会変化へ適切に対応することが商売であり、不動産事業もそうだと思います。地方のため、駅前から郊外ロードサイドへと投資対象を変えています。既存ビルも建築単価の高騰を踏まえ、必ずしも建て替えではなく、適切な管理を施しながら長く使用していく方向にシフトしています」(赤羽社長)
今では老舗となった赤羽産業の起源は、1872年、創業者の赤羽茂十郎氏が長野県東筑摩郡松本町で葉タバコ販売業を創業したときまでさかのぼる。これが赤羽家150年の歴史の始まりだ。このとき現在の相場で数億円の財を成したというが、1904年のたばこ専売法の施行に伴い、自由に商売ができなくなったことで事業から撤退した。
1905年には2代目となった赤羽茂一郎氏が化学肥料販売業の許可を取得。この2代目の時代に、各地に土地や畑地、水田、山林など多くの土地を取得した。12年に駅前に購入した土地が、今の赤羽ビルの場所になった。余談だが、新潟県にある松之山温泉の源泉と土地も取得したという(現在は源泉は手放すも土地の大部分は引き続き所有)。35年には配合飼料の取り扱いを開始して、実業の拡充も進めていった。
36年には3代目となる赤羽茂一郎氏(2代目の名前を襲名したため同名)が就任した。戦後には、財産税や農地解放における国への物納、没収をされたことで、田畑や山林など築いてきた資産の大部分を失った。また、56年には大手メーカーのセメントの特約店となり、時代の変化に合わせて事業をどんどんと多角化していった。78年には4代目の赤羽孝一郎氏が社長に就任。そして2018年に、現在の5代目赤羽英次郎氏が社長となった。
昭和の決断 ホテル誘致
事業家としての歴史は150年にも及ぶ赤羽家(※詳細右下囲み)だが、ビルオーナーとしてのキャリアは先代の時からだ。1982年に、4代目社長赤羽孝一郎氏(現社長の父親)は、大勝負に出た。建築費15億〜16億円、立体駐車場2億円の総額約18億円を投じて、松本駅前に地上11階、地下1階建てのホテルビルを建設した。これが赤羽ビルだ。そして東急ホテルを誘致。当時の松本では初めての本格的シティーホテルだったという。しかし、この計画の裏には激しい反対があった。地元旅館組合だ。
「灰皿を投げられた、って親父は言ってましたよ」と赤羽社長は笑いながら振り返る。大資本の東急ホテルが進出すれば、地元旅館は客を奪われる。死活問題だった。「商工会議所の専務理事が仲裁してくれました。部屋数を減らすなどいろいろと調整し、妥協点を見つけていったようです」(赤羽社長)
完成後の赤羽ビルは、前出のように今までにない空間を演出し松本市の目玉スポットとなった。ホテル経営が順調なこともあり、貸し出している赤羽グループが受け取る賃料も増えていったという。18億円に及んだホテル事業は、見事に成功した。

灰皿を投げられた、って
親父は言ってましたよ
東急からの解約通知
82年のホテル開業を皮切りに、その後は30年以上にわたってテナントとオーナーとして良好な関係を続けてきたが、2015年夏、東急ホテルから解約通知が届いた。その内容は17年10月末での契約終了。35年間のパートナーシップの終わりだった。「本当に紳士的で良い会社でした」と赤羽社長は今でも東急への感謝を口にする。35年の間、賃料交渉はあったが、信頼関係は揺るがなかった。08年のリーマン・ショック時には賃料減額にも応じた。東急側の事情を理解していたからだ。
「ザ・キャピトルホテル東急、セルリアンタワー東急ホテルという稼ぎ頭のホテルが、地方の赤字を飲み込んでくれていた。でもリーマン・ショックで、キャピトルやセルリアンという旗艦ホテルが赤字になり、東急のホテル事業全体が大赤字になった。『とても看過できない。助けてほしい』と言われて、賃料を下げました」(赤羽社長)
しかし、地方都市のホテル事業は構造的に厳しさを増していた。婚礼需要は減少し、ビジネスホテルへの転換も進む。稼働率よりも利益率を重視する時代に変わっていた。そんな時代の流れにあらがえず届いた解約通知。東急ホテル撤退の報を受けたとき、赤羽社長は動揺した。
メインバンクの仲介もあり、地元大手のアルピコグループとの交渉が始まった。当初は東急が紹介してくれた東京の大手フランチャイズチェーンも候補だったが、最終的にはアルピコグループを選んだ。
「地元に本社があり、売上高1000億円の企業グループ。その時は全く問題ないと思いました」(赤羽社長)

▲赤羽ビルの外観。松本駅のロータリーからすぐの場所に立っている

1/ホテルの客室。昔ながらの雰囲気が残るが、この部屋も含めた大改修を検討している 2/ホテル内にある宴会場。結婚披露宴なども行われ、松本市民に愛された場所だ
「再開発」が抱える課題
現在進行中の大規模改修提案をアルピコ側が拒否する理由になっている駅前の再開発について、その難しさを赤羽社長は感じている。
「実際に同規模の再開発をするとしたら、坪単価200万~250万円ですので、60億~75億円前後かかります。60億円でも担保価値を大きく超えるものであり、建設資金の資金調達は極めて難しい。仮に資金調達ができたとしても、60億円の投資に見合う賃料を払える企業、業種、業態はほぼありません。建築単価の高騰により地方での再開発は困難を極めています」(赤羽社長)
地方都市での再開発がいかに困難かということも、赤羽社長は各地の事例を把握したうえで話している。
「例えば新潟市の三越撤退後のタワーマンション計画は300億円規模ですが、この計画も止まっているんです。建築単価の高騰で再開発後の賃料との収支が合わず、各地で計画の見直しや白紙撤回がされています。特に地方が同様の問題を抱えているのです」(赤羽社長)
だからこそ、赤羽ビルが取るべき選択は「大改修」だと赤羽社長は言う。しかし、同時に最悪のシナリオも冷静に描いている。
「大規模な改修ができない場合、建物を使い潰すという選択肢もある。最低限の投資だけで利益を残しつつ、建物の築年数の経過や劣化に伴いホテルオペレーターの格を落としながらも延命する道もあります。使えるところまで現在の建物を使い倒して、最後は解体して、以降は土地だけを貸す。これでも利益は残ります。土地だけを貸すことが一番リスクの少ないプランなので、こういった方法も考えました」(赤羽社長)
解体費は高額だが、赤字の繰り越しでその後の利益と相殺することで、節税効果も大きくなる。結果として長期的に見れば悪い選択ではないというが「でも、ベストはここで大きく投資して、今の建物を20年、30年と長く使うこと。壊すのはいつでもできるので」というのが赤羽社長の本音である。
その経営方針は明確だ。既存資産を最大限生かすこと。そのための再開発信仰からの脱却。特に地方都市では新築より延命が合理的だという、冷静な現実認識がある。
「一人」の限界 チームに
そうして考え抜いた末の改修提案を拒否された赤羽社長。しかし、現在も諦めずに交渉を継続している。交渉相手は大企業であり、ともすれば諦めてしまいそうだが、そうならない背景にはチームの存在がある。このチームの重要性を実感したのは、アルピコグループと最初の契約を締結した8年前のこと。その契約交渉の過程で、赤羽社長は自分が「一人」で戦っていることを痛感させられたのだ。
「普段はホテルの総支配人と話しているのですが、いざ深い話し合いになると、向こうは法務担当、設備投資担当、リーガルチェック担当と、それぞれのプロフェッショナル、専門家が出てくるのです。対して僕はずっと一人でピッチャー交代ができず、自分ですべてを担当しなければならなかった。その経験から、今回は協力者と共に交渉に臨んでいます」(赤羽社長)
17年、定期借家契約ではなく普通借家契約でアルピコグループ側との当初の契約を締結してしまった赤羽社長は、自分の無知さを痛感したという。そして専門家が次々と出てくる状況に一人で対応することの限界も感じた。そこで赤羽社長は、専門家チームを集め始めた。
「不動産鑑定士、公認会計士、1級建築士、設備設計1級建築士のほか設備関係の専門家などを集め、ようやく自分のチームができました。『いざ鎌倉』という時に、チームが出来上がっていると本当に心強いです」(赤羽社長)
レギュラーメンバーもいれば、プロジェクトごとにスポットで依頼する専門家もいる。「一人でやるのはもう終わり。これからはチームで戦います」という赤羽社長。アルピコグループとの最初の交渉で感じた敗北感は、こうして成長の糧となった。
ファミリーのプライド
現在、赤羽社長にはまだ幼い2人の子どもがいる。上の子は6歳、下の子は1歳半ほど。後継者問題は、赤羽社長にとって常に大きな課題だ。
「最終的に誰かに継げたらいい人生だなって思います、本当に。資産を預かる者として、簡単には死ねないし、何とも言えないプレッシャーがある。でも、私は幸運にも大きな資産を承継できた。そして自由に事業に挑戦ができています。事業承継により信用力も引き継いだ、という意味では恵まれていますが、それ故の不自由さを感じることもあります。それでも、引き継いできたものを、無事に次に渡さないと、自分の人生は成功ではない。ご先祖さまに示しがつかないと思っています」(赤羽社長)
一族で代々資産を継いでいる者の責任を、赤羽社長はしっかりと受け止めている。
そもそも赤羽社長が家業を継ぐことを最終的に決めた理由には、大学時代に4年間、カナダへ留学していたことが原点にあるという。
「ホームステイ先でメキシコ人のクリーニング店のオーナーの息子と一緒だったんです。よく言ってたんですよ。『パパのファクトリーが、パパのファクトリーが』って。そこで『ファミリービジネス』って言葉が耳に残った。その経験から、帰るところがあるのは素晴らしいなと無意識のうちに思ったんだと思います」(赤羽社長)
赤羽社長には兄がいるが、海外勤務の会社員として日本にいない時間が長い。そこで赤羽社長は「じゃあ帰るか」と赤羽産業への入社を決めた。03年、24歳でのことだった。そして現在、赤羽社長は48歳。社長に就いてから9年目になる。
「1人の人生だったら勝ち負けになる。でも時代は違えど、ずっとファミリーでやっているのです。つらい時代の人も、いい時代の人もいる。けれど、ファミリービジネスとしてやっていけばトータルでは負けはない。だからどんな結果でも、今自分がいい時代かはわからないけれど、ベストを尽くし、次代にバトンを託したいと思います。つらい時もありますが恵まれた環境に感謝して、これからも楽しく事業に挑戦していこうと思います」(赤羽社長)
再開発か、大改修か、延命か。あるいはほかの選択肢が出てくるのかもしれない。正解はないかもしれない。そして、ファミリービジネスの今のバトンを握るものとして、赤羽社長は決断をしていく必要がある。そこに明確な正解はなくとも、どんな状況でもベストを尽くすために赤羽社長は奮闘していくはずだ。それが「ファミリー」で働く者のプライドなのだから。
ベストを尽くし、
次代にバトンを託したい
(2026年4月号掲載)






