ビルオーナー物語:工場跡地ビルの共用部の利用で立地依存脱却

賃貸経営ストーリー#立地環境#共用部#事業承継

歴史ある金モール製造事業の工場跡地ビル
共用部の工夫で立地の良さへの依存を脱却

 日本屈指のコンサートホールである「東京オペラシティ」の最寄りである初台駅。初台TNビルは同地に立つオフィスビルだ。敷地面積635坪のこのビルを所有する中野商店(東京都千代田区)はもともと金モール製造工場を経営していた。歴史ある金モール製造からビル事業への転換を行った中野淳子会長へ当時の決断、そして現在事業承継を進めている長男の光一郎社長にこれまでの歩みについて聞いた。

中野商店(東京都千代田区)
中野淳子会長/中野光一郎社長(52)

 京王電鉄京王新線新宿駅の隣駅の初台駅から徒歩4分。駅前の商店街を抜け、玉川上水旧水路の初台緑道沿い、住宅地が始まるところに初台TNビルはある。

▲初台TNビル 

 敷地面積は635坪。地上4階建てRC造のビルには、現在7社のオフィスが入っている。上場企業の関連会社のほか、西新宿にIT関連企業が多いことから、情報通信系のオフィスがテナントとして契約している。この地には、かつて金モールの工場が立っていた。金モールとは軍人の制服を飾っていた金の飾緒や襟章といった服飾品だ。中野家の本業は金モール製造・販売事業だった。現在、中野商店が所有するのはこの工場跡地に建てた初台TNビルと、営業所として利用していた千代田区岩本町にある「ニュー中野ビル」だ。この2棟のビルの賃貸事業を主として経営している。

▲左手に見えるのが初台の工場。奥には中野家の自宅があった

明治創業の老舗企業 市場環境変わりビル経営へ

 中野商店の歴史は、1870年に創業者である中野要蔵が東京の日本橋呉服町(現在の八重洲)で金モール事業を開始したことに始まる。軍国主義が華やかなだった明治時代の日本において、金モール製造事業は「富国強兵」「立身出世」をモットーにした時代の象徴だったという。年々上がり続ける業績を背景に、1917年には工場を代々幡町(現在の初台)に建設。営業所も東福田町(現在の岩本町)へ移した。

▲かつて日本橋呉服町にあった金モール製造工場の様子

 その後、軍部官公庁の用命を受けた同社は、陸海軍両省などの特約店となった。そして、事業は金モールにとどまらず、軍用刀剣類の製造まで拡大した。「かつて初台の工場では100人ほどの職人が働いていました。敷地内には中野家の自宅のほか、職人の住む戸建ての家や駐車場もありました」と淳子会長は話す。

▲中野商店が製造していた金モールは職人の技が光っていた

 ところが、45年の太平洋戦争終戦で状況が一変した。陸海軍は解体し、納品先は防衛庁調達実施本部や宮内庁といった省庁だけでなく、私鉄バス会社や船舶会社などの民間企業に変わっていった。そして、時代が流れていく中で、顧客たちは高品質な中野商店の製品ではなく、安価な輸入製品を選ぶようになってしまった。

 時を同じくして、職人たちが高齢化し、技術が若い世代に伝えられないまま辞めていくケースが増えてきた。「父親は、自分の代で金モール事業は終わりだと考えたのでしょう。すでに所有する土地をどうやって活用するか考えていたようです」と淳子会長は振り返る。父親は、初台の工場を小規模なものに建て替え、その一部を駐車場に変えた。それと同時に、土地の収益化プランを10件以上取り寄せていたそうだ。中野家は、淳子会長を入れて4人姉妹。それぞれに1区画ずつマンションを残す計画も考えていた。

父親の急逝で社長就任 初台の土地は土地信託に

 だが91年、思いもよらぬ事態が発生した。母親が亡くなり、母親の葬式直前に父親も緊急入院。そして母親の四十九日を迎える前に父親も帰らぬ人となった。当時、44歳だった淳子会長は事業承継はまだ先と考えていたが、まさに青天のへきれきだった。
 淳子会長は中野家の次女であったものの、長女が他家に嫁いだことで、中野家を継ぎ、夫には婿養子に入ってもらっていた。しかし、当時メーカーのエンジニアとして忙しく働いていた夫に、事業規模を縮小し続けている中野商店を継いでもらうわけにはいかない。そう思った淳子会長は自らが経営者になる道を選んだ。
 企業勤めをしたことがない淳子会長だったが、夫をはじめ、さまざまな人が手助けをしてくれた。すでに一線を退いていた夫の同僚や古株の社員たちの協力で何とか家業を続ける見通しを立てることができたという。
 だがもう一つの懸案事項は相続税だ。当時所有していた別荘を物納したがそれでも納税しきれない。そんな淳子会長に、父親の代から付き合いがあった銀行が土地信託契約を提案してきた。
土地信託とは、信託銀行に土地を預け、活用してもらう仕組みだ。登記も信託銀行に移る。土地の所有者は信託受益権を持ち、配当金を受け取る。銀行からは、配当金を使って延納した相続税を納めていくプランを提案された。
 右も左もわからない状況で金モール事業を継いだうえ、ビル経営を始めるのは難しい。そう考えた淳子会長は、別途父親の友人で地方銀行の頭取を務めたこともある人物に土地信託についての意見を乞うた。そして、4姉妹ともに納得のうえ、30年間の土地信託契約を結び、94年に初台TNビルが竣工した。

▲ニュー中野ビル

 ビル竣工後は、在庫で残っていた金モールを販売するなどで細々と事業を続けていたが、ついに99年、中野商店は金モール製造事業を休止した。数人残っていた従業員もみな高齢化しており事業の撤退もやむなしという認識を持っていたことから、大きな反対はなかったという。それ以降、同社のメイン事業はビル賃貸事業となった。

中野商店が直接経営の時代 資産価値を上げるため努力

 初台TNビルは土地信託、そしてニュー中野ビルはサブリース契約を結んでいたため、今までの中野家は賃貸経営に直接的に発言してくることはなかった。ビル賃貸事業に主体的に関わるようになったのは、淳子会長の長男である光一郎社長や娘の真規子取締役が経営に参画し始めた20、21年からだ。

 淳子会長自身の年齢も70代に入ってきたこと、光一郎社長の年齢やキャリア形成のタイミングを鑑みたこと、そして土地信託を契約より前倒しで満了する案を銀行が提案してきたこと、こうした要因が重なり事業承継を見据えることにした。

 「土地信託契約やサブリース契約は、不動産のプロに建物を預けるので、所有者としては管理の手間を省くことができるといった利点がありました。ですが、最低限の維持管理は行えていたとしても、入居者満足につながる改善の余地を見落としてしまっていたのではないかと感じました」と話す淳子会長。

▲敷地内に広い喫煙所を設置 

 この4年で初台TNビルではさまざまなてこ入れを行った。まず、敷地内の空地に広い喫煙所を設けた。分煙が進み、オフィス内は禁煙という会社も増えている中、需要があると考えたのだ。

▲エントランス横にはシェアサイクルを導入 

 エントランスにはシェアサイクルを導入し、エレベーターホールにはデジタルサイネージを設置するといった共用部充実を図っている。実は、この30年でテナント賃料も下がっていたという。そこで、付加価値を与えることで、賃料の回復をしていきたいと考える。

 現在、家族で渋谷ビル経営者協会(東京都渋谷区)の会員にもなっている。勉強会に出席し、ほかのビルオーナーの物件を訪問して得た知識を所有物件に生かす。先祖から受け継いだ地で立地に頼ることなく、魅力ある物件としてバリューアップを図り続けたいと話す淳子会長と光一郎社長だ。

【中野商店の歴史】

1870年 中野要蔵が日本橋呉服町にて金モールの製造・販売を開始
1917年 代々幡町に工場を、東福田町に営業所を移転する
19年 組織を株式会社に改め事業拡大。軍用刀剣類などの製造を開始
45年 終戦。主要な顧客であった陸海軍両省が解体
1980年代、 金モール製造事業縮小
88年 本店ビル建て替え。ニュー中野ビル竣工
91年 中野淳子現会長が家業を引き継ぐ
94年 初台の工場跡地に初台TNビル竣工
99年 金モール製造事業を休止。不動産賃貸事業が柱となる
2021年 中野光一郎社長就任

(2024年10月号掲載)
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