ビルオーナー物語:東京に唯一残った鉄工所

賃貸経営賃貸管理

東京に唯一残った鉄工所を支えた賃貸事業
1級建築士の経験を生かし物件の価値を維持

飯田製作所(東京都江東区)はかつて鉄工所を営んでいた。現在の社長、福田江利奈社長は以前1級建築士として、家業とは別のキャリアを歩んでいた。だが、家業を畳み賃貸事業がメインとなった現在、自身のスキルを生かしながらビル1棟と賃貸マンション1棟の管理を行う。

飯田製作所(東京都江東区)
福田江利奈社長 

 タワーマンションが立ち並ぶ江東区豊洲エリアから電車で20分程度であるにもかかわらず、下町にある住宅地の雰囲気を残す東京メトロ東西線東陽町駅周辺。同駅から徒歩2分という、立地に恵まれた場所に「飯田ビル」がある。築34年の5階建て、ワンフロア約123㎡のビルには、1階から3階まではクリニックが入居。4階にはピラティス教室、そして5階には飯田製作所の事務所兼福田社長の自宅がある。「1991年に祖父である飯田歳松が相続税対策のために建てたビルです。以前は、戸建ての自宅がありました」と話すのは、福田社長だ。

▲ 祖父が立てた飯田ビルの外観

 ビルの竣工時は1階から4階までゼネコン1社が丸ごと借り上げていたため、収入も安定していた。それが、93年に一斉に退去。まだ借り入れの返済が終わっていなかったため苦戦が予想された。だが、1階に薬局、2階にクリニックが入ってくれたことで救われた。「その二つのテナントは32年来の入居者です」(福田社長)

 この二つのテナントのおかげで、今は医療ビルになっている飯田ビル。クリニックは一度入れば、患者が付くため長期入居が見込める。「安定経営になるのはもちろんですが、同時に地域貢献もできていると感じています」と福田社長は話す。
 「祖父の代は本業がうまくいっていたため、あくまでも相続税対策として建てた物件ですが、結果として本業の経営が難しくなった時代を支えてくれました」と福田社長は話す。

時代の波にさらされた家業 価格競争に勝てず廃業 

 歳松氏が51年に創業した飯田製作所は、鉄骨の製作所だった。当時の川崎製鉄(神戸市)が横浜支社を設立した際、下請け業務をお願いできないかと打診されたことをきっかけに事業を開始した。江東区東砂に1000坪の工場を建設。川崎製鉄から仕入れたH形鋼と呼ばれる鋼材を、それぞれの工事現場に合うサイズに切断したり加工したりしていた。

 高度成長期やバブル期など、建築ラッシュの時期には多くの現場に鋼材を卸し、職人の数も増えていった。だが、だんだんと地方から進出する企業が増えていったことで価格競争に巻き込まれることになった。「一つ大きなプロジェクトが始まると、地方からたくさんの企業が名乗りを上げるようになったのです。ほかの企業が低コストでの見積もりを出すため、当社で受注することが難しくなっていきました」(福田社長)

 そこで、飯田製作所は都内の公立学校の耐震補強工事や地下鉄の工事に活路を見いだすようになった。地方から出てきて受注しても割に合わないと思われるような仕事を受けることで、都内にある鉄工所としてのメリットを生かせる業務に集中することにしたのだ。

▲1000坪の敷地で作業していた鉄工所

 それでも鋼材事業は難しくなっていった。その理由の一つは、工場のある1000坪の土地が借地だったことだ。受注数が減る中、地代を払い続けることで事業は赤字になっていた。

 もう一つは、当時社長として会社を引っ張っていた父、飯田歳樹氏が病に侵されて余命宣告をされたことだ。福田社長とその弟妹を含め、家族で会社の今後について話し合った。これ以上鉄工所を続けていくことは難しい。事業を売却するのがいいだろうという提案に、当然ながら父親は大反対だった。東京で唯一残った鉄工所の社長としての誇りは家族も理解できる部分はあった。

 家族で話し合いを続ける中、20年に新型コロナウイルスの感染が拡大した。先行きが見えない時代、何より、当時会社に残っていた社員や外国人技能実習生の生活を守っていかなければならない。この状況が、父親に事業売却を納得させる一因にもなった。最終的には父親もM&A(合併・買収)に同意。鉄鋼事業のみを売却した。

 「社員たちは全員、売却先、あるいは別の大手鉄鋼事業者にいいポジションで転職できたので本当に安心しました。いかに当社が優秀な社員に支えられていたかがわかりましたね」(福田社長)

 以降、飯田製作所は不動産の資産管理がメインとなり、22年に福田社長が就任した。

建築士を目指し就職 賃貸経営にキャリアを生かす 

 福田社長はインテリアコーディネーターを目指し、美術系の専門学校を卒業した。その後、都内の1級建築士事務所に就職し、働きながら1級建築士と宅地建物取引士の資格を取った。「家業の鉄工所なんて地味。やはり花形は建築士だと思っていました」と話す福田社長だが、飯田製作所に入社する以前より賃貸経営に関わっていたという。

 それが飯田ビルから徒歩8分ほどの住宅地の中にある賃貸マンション「ISビル」だ。築36年の7階建てのマンションで全14戸。低層階は芝浦工業大学に通う学生の需要を見越した1Kで賃料は7万5000円。中層階は1LDKと2LDKで家賃は10~11万円。最上階のみ、ワンフロア1戸の3LDKだ。かつては飯田製作所の役員の住居となっていた部分だが、現在は最上階も賃貸として16万3000円で貸し出している。

 11年、東日本大震災が起きた際、当時ISビルの最上階に住んでいた叔父家族が「最上階は揺れた。別の場所に引っ越す」と言って、取る物も取りあえず出て行ってしまった。子育てのため、1級建築士事務所を退職していた福田社長に白羽の矢が立ち、残置物の片付けやリフォームを任された。

「当時まだ小さかった子どもを背負いながら、物件の片付けをしました」と福田社長は笑う。子どもを連れてISビルのエントランスにいると、内見者かと間違えた入居者が「ここのオーナーさん、地震が怖くて出て行っちゃったのよ。あなた、そんなところに住むのはやめなさいよ」と軽口をたたいてくることもあった。

 入居者にそう思われている部屋を長くは空けていられない。だが、ワンフロア1戸の広い専有部では、なかなか借り手もつかないだろうと考えた福田社長は、シェアハウスとしての貸し出しを思い付いた。女性3人でシェアできる物件として程なく入居者が入った。

 物件に足しげく通っていると、共用部やバルコニーがずいぶん乱雑であることに気が付いた。このままではトラブルに発展し、今いる入居者たちも退去してしまうのではないかと考えたという。「いわゆる『割れ窓現象』で、小さなルール違反が環境の悪化に通じることがISビルにもいえるのではないかと思いました」と話す福田社長。

 そこで、共用部の張り紙に始まり、手紙や電話を使ってごみを放置している入居者と連絡を取り続けた。「当時は若かったのだなと。ドアをたたいて、直接入居者に注意することもあったくらいですから」(福田社長)。その努力により「割れ窓」は少しずつ減り、物件環境の改善につながった。

 結局、問題行動を起こす入居者が入ってしまうのは家賃帯に問題があるのではないかと福田社長は考えたという。実際、ISビルの家賃帯は少しずつ下がっていた。そこで、優良な入居者の退去抑制、あるいは新たな入居者が入ってきた際に家賃アップできるようにと打った手がエントランスの改修だった。「東日本大震災の際にできたクラックの補修も必要でした。そこで、単にパテによる補強をするだけでなく物件の印象を変えようと思ったのです」(福田社長)

 もとは、白地と青のラインが入った外壁だったが、改修後は黒をベースに重厚感ある色みに変えた。アプローチの床材も表面仕上げを変え、館銘板もシャープなものにした。

「よほど雰囲気が変わったのか、外壁塗装工事の仮囲いを取ったときに『うちのマンションだとは気付かなかった』と、思わず通り過ぎてしまった入居者がいたほどです」と福田社長は話す。

 ISビルの外壁が変わったことで、周りの物件にも好影響を及ぼしているという。外壁修繕をする物件が増えただけでなく、エントランスに間接照明を取り入れたり、植栽を整えたりした物件もあるようだ。きれいに修繕された物件が増えることで一帯の価値の上がる効果があったのではないかと考える福田社長だ。

 もともとの家業ではなく、建築士としてのキャリアを積んでいた福田社長は、巡り巡って新たな家業である不動産賃貸事業にその経験と知識を生かす。現在はビルオーナーとして、今までの人生が集約されているようだ。

 現在所有する2棟の物件の年間収入は4200万円。だが、飯田製作所の今後を考える際、「果たして不動産事業だけでいいのだろうか」ともいう。「家業を継いだものとして、資産を守らなければいけません。不動産事業がメインではあります。でもその不動産も東京にしかなくリスクヘッジができていません」(福田社長)。持っているだけでは、インフレに負けてしまう可能性もある。そもそも、資産を円建てだけで考えているのは危険ではないか。今後は動産資産も視野に入れ、資産を分散させることで受け継いだ資産を守っていきたいという。

■飯田製作所の歴史
1980年 飯田歳松が飯田製作所を創業
 89年 ISビル竣工
 91年 飯田ビル竣工
2020年 飯田製作所の鉄鋼事業を売却
 22年 福田江利奈社長が就任

(2025年 5月号掲載)

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