<リファレンス>看板業から「貸す」を軸に展開

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看板業から「貸す」を軸に不動産事業を展開

家業の看板業から、「貸す」を軸に貸し看板、賃貸住宅、コインパーキング、貸し会議室、ホテル事業まで展開しているのが、リファレンス(福岡市)の相部光伸社長だ。売り上げは54億円(2025年1月期)。紆う余よ曲折を経ながらも、時代に合わせて事業を変化させて拡大してきた。

リファレンス(福岡市)
相部光伸社長

九州中心に賃貸住宅4000戸 ビル8棟、ホテル6棟所有

 リファレンスは看板業を祖業として、1990年代後半から不動産賃貸事業を柱に規模を拡大してきた。現在は宮崎県を除く九州全域に賃貸住宅4000戸を所有、その他の管理物件も合わせると5300戸ほどある。所有物件の棟数は約160棟にも上る。

 さらに、コインパーキングを中心に駐車場は2800台分、会議室は9拠点、2020年から展開するホテルは6棟162室を運営する。同社のほか、グループ会社には、看板広告業、太陽光発電事業、家賃債務保証業、携帯電話販売代理店もあり、多角化戦略で展開してきた。

JR博多駅から徒歩5分の場所に立つ本社ビル

 「変化に対応できる企業しか残らない」。こう話す相部社長の経営者としてのスタートは、1972年、22歳の時だ。看板制作会社の相部広告(福岡県田川市)を経営していた父親が体調を崩したことにより、息子の相部氏が大学卒業直後から経営に関わることになった。当時は九州電力やNTTの電柱広告や店舗の看板制作が主な事業。だが、看板制作業は売り切りのビジネスで、事業を拡大することに苦労した。

 そんな相部社長に大きな影響を与えた人物は、地元の税理士主催の講演会に登壇していた経営コンサルタントの一倉定氏だった。講演に感銘を受けたことから、それ以降一倉氏が主催の勉強会に参加し学んだ。その一倉氏から「相部くん、あなたの会社の事業を定義付けなさい」と言われたことが相部社長にとって転機になった。事業の定義を考えた結果、たどり着いたのは「貸すビジネス」だった。

 電柱広告は電柱の所有者である九州電力が貸主となり、看板広告を掲載する広告主から賃料を受け取るものだ。従来、相部広告はその看板の制作のみを請け負っていたが、貸主の九州電力の側に立って看板広告を掲載したい広告主を募る、貸し看板業を始めた。実にこの貸し看板業こそが、相部社長にとって「貸す」を軸にビジネスを多角的に展開するための最初の一歩だった。

 1970年代後半当時、九州でも高速道路が拡張する中で、インターチェンジを降りた付近の道路左右10区画の土地を借りて、看板を設置。「この先○mに○○」という看板は広告主にとっても大きな宣伝になるため、好評を博し、貸し看板業の売り上げは大きく伸びていった。

 だが、その人気も長くは続かなかった。電柱の埋設化の動きや道路規制の問題など、事業拡大を阻む要因が次々に現れたためだ。

消費者金融業から不動産業へ バブル崩壊後の土地下落狙い購入

 次なる一手を模索していた相部社長が注目したのは、当時広がり始めていた消費者金融だった。貸すというビジネスを看板からお金に転換しようと考えたのだ。そこで広告業で得た利益を資金に、消費者金融業をスタート。78年のことである。

 消費者金融は当時貸出金利も高く、事業を成長させることができた。ところが、80年代半ばごろから経営環境が変わる。出資法および貸金業規制法の改正に伴い、段階的に貸出上限金利が引き下げられたのだ。90年に入って引き下げがさらに進むことが予想できたことから撤退を考え始めた。

 そんな時に、初期の携帯電話が登場した。携帯電話は今でこそ購入するものだが、当初はレンタル。電柱を扱っていた関係で電波事業者とのつながりがあったことから、九州セルラー電話(現:KDDI)の販売代理店になった。

 一方、平成バブルの崩壊で地価が下落したことで、土地が購入しやすくなっていた。「買うなら地下鉄駅の近く」と決めていた相部社長。当初は土地は購入できても、建築費までは銀行から融資を受けられないと思っていた。

 そこで着手したのがコインパーキング事業だった。当時地下鉄が開業したことで、駅周辺の月極駐車場の利用者が減っていた。一方駅近ゆえに人は集まることから設備を投資してコインパーキングにした。すると、月極で1台1万5000円の賃料のところが、5万円になったのだ。「これは土地を借りてももうかる」と思った相部社長は借地でもコインパーキングを展開するようになった。

 このコインパーキング事業をきっかけに「不動産を稼働産に」をテーマに掲げて不動産を増やしていった。

 「入居者を獲得する方法は、二つあります。一つは家賃を下げること。もう一つは設備投資して付加価値を高めたうえで決めること。当社は後者で勝負してきました」(相部社長)

 コインパーキングを増やす中、好立地なのに上が空いているのはもったいないと感じるようになった相部社長。調べると建築会社もバブルがはじけて仕事がなかったため、建築費が下がっていた。金融機関も融資をしてくれることがわかり、コインパーキングの収益の積み立てを建設資金の頭金として、賃貸マンションを建てていった。こうして一気に不動産賃貸事業へかじを切ったのだ。

 敷地100坪、駅から徒歩5分以内でかつ、多くの人が避けがちな高低差がある土地や地形が悪い土地などを割安で購入し、収益化することで、賃貸住宅を順調に増やした。

 賃貸経営ではこれまでの経験が生かされた。例えば「敷金・礼金ゼロ」の契約プランだ。「消費者金融をやっていた時は、無担保、無保証、即契約が当たり前だったでしょ。貸し倒れリスクもある中でそれをやってきました。ところが、賃貸業では敷金・礼金まで受け取って契約するビジネスだと知って、逆にそのために契約を獲得できないなんてもったいないと思いました」(相部社長)。当時まだ珍しかった敷金・礼金ゼロの契約プランに取り組み、入居者確保を図った。

 それと同時に清掃、メンテナンス、リフォーム、家賃債務保証などをワンストップで行える体制をつくった。トラブルが発生したときにすぐに対応できる体制にこだわった。その結果、入居率は常に95%以上をキープできるようになり、それは4000戸所有する現在も変わらず97%以上を維持している。

(2025年10月号掲載)
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