借金発覚に放火の被害、連続で訪れるピンチ

相続事業継承

<<嫁ぎ先を盛り立てる>>

嫁いだ家の借金整理と事業転換を実現】に続き、祖父にしっかりと教えられた不動産経営の「いろは」を生かし、婚家を守り抜くのが湊祐貴子オーナーに話を聞く。

いきなり発覚、破産の危機 義父が借金を重ねていた

 青果の仕分け・出荷業はかつて非常に順調だった。戦後程なく始めた事業で、最盛期の年商は3億円を超えていた。多い時では正社員5人、パート社員20人ほどの大所帯で、毎年社員旅行もしていたくらいに順調だった。

 だが、時代の変化とともに徐々に売り上げは減少していった。家族と社員が暮らしていけないほどではなかったが、昔ほどではなくなっていたという。

 「昔はただトラックで梱包した青菜を運べばいいだけだったのが、時代の流れとともにコンテナを積んだ保冷車で納品することが求められるようになりました。また排ガス規制も徐々にきつくなり……。単価の高い品物であれば乗り切れたのかもしれませんが、薄利多売の商売では時代に合わせて設備投資をするのは割に合わないリスクの高い行動で、できませんでした」(湊オーナー)

 ジワジワと家業が縮小していく中でも、ぜいたくさえしなければ家族で十分に暮らしていけるだけの余裕はまだあった。ところがそんなある日、湊家を根底からひっくり返してしまうような大事件が発覚した。

 稼げていた頃の感覚が抜けていなかったのだろう、義父は家族に黙って大きな借金をつくってしまっていた。しかも、自宅や工場を担保にしていたのだ。

 発覚したのは05年。体調を崩した義父が入院したのと同時期に実家の母が骨盤骨折で入院した。母は突然湊オーナーに「義父の借金の保証人になっている」と告白したのである。調べてみると長年の蓄積により、義父の借金額は膨大なものだった。

 「息子である夫はショックを受けて茫然自失でした。それもそのはず、父の借金というだけでも寝耳に水のところ、この状態で義父が亡くなったら、一家は家も工場も失ってしまう。担保関係がそんな状態だったのです」と湊オーナーは振り返る。

 さらに悪いことに、湊オーナーの実家の家も抵当に入っていた。このままいけば自分の実家も借金のカタに取られてしまうため、婚家を捨てて実家に帰る選択肢もなかったという。3人の子どももまだ学生でそれも逃げるわけにはいかない理由だった。

 「これは自分が頑張らなければ家族を守れない」と腹をくくった湊オーナー。事態発覚後に慌てて借金を整理した。家業の仕事も行う傍ら、夫を励ましながら奔走。返済資金を借り入れたり、担保関係を付け替えて整頓したり、すでにある返済の期間を延ばしてもらったり。文字通り駆けずり回ったという。時折、「どうして自分の実家でもないのにこんなことを」と思ったというが、だからといって悲壮感にのみ込まれてしまうことはなかった。混乱の中でも肝の据わった対応ができたのは「幼少期から祖父に商売の心構えをたたき込まれていたからでしょうね」と湊オーナーは懐かしさを顔に浮かべる。

 そんなことがありつつ、10年に義父が亡くなるまでにある程度、借金を整理するめどがついたので、家も工場も取られずに済んだ。「もし亡くなった後に借り入れが発覚したなら、私たちは住む家も含めてすべての財産を失っていたことでしょう。ですから、義父の借金が早い段階で判明していてよかった。そうでなければ私は今ここにはいませんね」(湊オーナー)

一難去ってまた一難 メイン工場が放火された

 ところが、何とか借金の整理のめどが立ち始めた13年、湊家は予想もしなかった大災難に見舞われることになった。メイン工場が放火されてしまったのだ。

「義父の借金判明以来、ただもう必死にもがいて駆けずり回って、やっと先行きが見え出したというのに。『一体誰が、何のために』と運命を恨むような気持ちになりました」(湊オーナー)

 満額ではなかったが保険金は下り、「これで工場を修繕して再開できる」と思った。ところがその保険金がとんでもない災いも呼んできたのであった。

事業運転資金を借りている先から「保険金が入ったんでしょう? お金が手元にあるなら繰り上げて返済して」と言われてしまったのだ。

しかし、そもそも工場はRC造で躯体は残ったけれど、電気や水道のあらゆる配線、配管が使えない状態だった。修繕費は高額となってしまう。例えば、青果を揚げ降ろしするエレベーターだけでも800万円。実際は保険金だけですべてを賄うことはできない状況だった。それでも相手にそれを信じてもらえるすべはない。「『お金があるのに返してくれない』と思われてしまったら、人間関係が崩れてしまって……。このことを契機に、長期的に青果の家業を畳むと家族で決めました」(湊オーナー)

 大がかりな修繕は諦め、数年後の廃業を前提に、最低限の修繕で工場を再開した。放火当時の社員は多かったため、彼らがその後の生活に困らないように依願退職を募る形で少しずつ家業を縮小していった。

仕分け事業を完全に廃業したのは火事から6年、19年のことだった。

 長く続いた家業を終わりにするのは苦渋の決断だったが、次世代のためにはこれでよかったのだとも思っている。トラックの質の要求についていけるかのほかにも不安材料は大きかったからだ。「誰も起きていない夜中・早朝に、夫はトラックでホウレンソウや小松菜をスーパーに運んでいく日々。体への負担も大きなものでした。しかも、提携農家からの青菜の納品が足りなければ、不足分を自分たちが損をしても仕入れて納品しており、収入が安定しない面があったのです。子どもたちにこの生活を引き継いでいいのか迷っているところもありました」(湊オーナー)

 工場跡地で始める新たな家業として、廃業の翌年である20年に賃貸マンションが竣工。同じ場所で湊家の新たな歴史が始まった。とはいえ、湊家ではもともと青果の仕分け業のほかの柱として長屋を経営していたこともあり、事業転換はスムーズだったという。

 青果仕分け業を行っていた頃の最高年商の3億円と比べ、現状の家賃年収は5000万円と約6分の1となってしまった。事業が大幅にスケールダウンしたようにも思えるが、全くそうではないという。

「年商が3億円あったといっても、社員も多く、設備投資も必要になり、結局手元に残るお金はわずかでした。現在の年商5000万円のほうがはるかに収益性は高い。現在の収益は青果仕分け業の時よりむしろ良いです。あの頃よりも人やお金の問題、そして何より忙しさに追われることのない仕事内容なので不動産事業に変えて本当に良かったと思います」(湊オーナー)

(2025年10月号掲載)
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品質と収益性にこだわった収益物件で事業転換

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