ビルオーナー物語:観光資源となるビル経営②

賃貸経営歴史

大阪に、所有ビルを通じて、まちづくりに尽力するオーナーがいる。北
浜の水都や道頓堀の演芸という街の魅力を引き出すビルを経営。地域の
人や観光客の集まる場所を作り、文化を守っている。

バブル崩壊で赤字転落 会社を辞めて家業に入る

 山根家が不動産事業を行うきっかけとなったのは、85年に父が福岡県飯塚市にマンションを新築したことだった。住んでいる大阪ではなく福岡に1棟目を取得したのは、当時の父の仕事と関わりがある。

 もともと父は腕のいい電気技術者で、製薬会社の技術顧問として役職に就いており、その仕事の一つに九州での製薬工場の建設があった。父は仕事を通じて九州には割安でいい土地があると知り、いい建設会社と出合う。自分も個人で建物を建てて経営したいと考えた父はマンションを新築した。父が始めたサイドビジネスは順調で、90年までに父は中古マンションを5棟とビル1棟を買い足した。

 その頃山根社長は、大学を卒業して建設コンサルタント会社で忙しく働いていた。「幼少期からまちづくりに興味があったので、労働時間は長くても充実した日々でした」と振り返る。

 だが、91年ごろからバブル崩壊の兆しが見え始め、父の不動産経営は赤字になってしまった。ついに、父は息子である山根オーナーに対し、仕事を辞めて家業の不動産経営に携わるよう強く説得したという。「『おまえ、自分の好きなまちづくりばかり追いかけるな。家が大変なことになっているから立て直せ』と父に言われました。勝手なことを言うものだと最初は思いました。しかし、確かに当時の私は午前9時から翌日午前2時まで働いていたので、今振り返ると私の体を心配して家に呼び戻した面もあるだろうと思っています。私も素直ではなかったので、『わかったわ。でもまちづくりはライフワークとして続けていくから文句言わんといてや』と条件をつけたのを覚えています」と山根社長は振り返る。

工事の見直しで経営立て直し 金利低下も追い風

 父の説得後の92年、山根社長は会社員を辞めて不動産事業を受け継いだ。

 それはバブル崩壊の頃のことで、この年の不動産事業の収支は最終赤字となった。退去による収入減、一部の管理会社からは収入も送金されない、購入額が高く、借入残も大きいため売却もできない、返済の負担や修繕費の支出という問題を抱えていた。経営を立て直すために山根オーナーが行ったのは、過去の支出の整理と、支出の適正価格化だった。

 父の所有マンションは福岡にあったため、大阪在住の山根社長は管理を現地の管理会社に委託していた。管理会社からは毎月、家賃や空室率、修繕費用などの記された報告書が届いていたが、山根社長には修繕に使われたふすまや畳などの価格が適切なのかさえわからない。そこで、父が不動産を始めた時からの7年分の記録を整理し、いつ何にどれだけ費用がかかったのかを算出してみたという。すると、何度も同じ修理工事を繰り返していたことが判明。

 「修繕費一つ一つに対して、本当に正しい修理なのかを事業者に突っ込んでいきました」(山根オーナー)

 地道に追及していった結果、無駄な支出を削減することができた。
 バブル崩壊による金利の低下も追い風になったという。父は変動金利で借り入れてマンションを取得していたため、金利が下がった分だけ支払いが減った。当初の借入金利は6%だったが、これが大きく下がったという。

 これらの要因により、94年には不動産経営は黒字となった。

2億2150万円で落札 本社ビルを97年に取得

 黒字化と同時に、市場に割安の物件が出ていることにも気付いた山根オーナーと父は、物件を買い増す決断をし、94年と96年に長崎県長与町と福岡県飯塚市に中古マンションを1棟ずつ購入。ここから山根家の事業は拡大していった。

 94年以降の数年間はマンションを買い進めていたが、97年にはしっかり「事業」として不動産経営を行っていこうという考えの下、不動産統括管理事業を法人化、山根エンタープライズを設立した。同年は、本社ビルを取得した記念の年である。「Y'sピアアクセス心斎橋」だ。

▲山根エンタープライズの本社もあるY’sピア心斎橋

 大阪メトロ御堂筋線心斎橋駅から徒歩5分の好立地で10階建て。同社がワンフロアを使用するほかは販売店や会計事務所、ショールームがテナントとして入居し、ほぼ満室を維持している。利回りは15%ほどとなっている。競売により2億2150万円で落札した。

 「父と2人で競売会場近くの喫茶店に入り『いくらで入札しようか』などと直前まで話したことはいい思い出です。引き渡しがスムーズにいかない、立ち退き料目当ての入居者など、思いもしなかったトラブルも起こりましたが、不動産を事業として行っていくスタート地点としていい経験を積むことができました」(山根社長)

 事業は順調だったが、この時点では不動産経営と街づくりは自身の中で結び付いていなかったのだという。転機は2002年に訪れる。

転機は古民家再生 不動産はまちづくりに役立つ

 不動産事業が順調でも、山根社長は本業を隠してまちづくり活動をしていた。それは、不動産事業自体が「地上げ屋」のイメージで「町壊し」と批判され、まちづくりの敵と思われていると感じていたからだ。だが、2002年に有志メンバーの一人として空堀地区の古民家の再生に関わったことで考えが変わった。不動産の再生がまちづくりにつながることを実感し自らの不動産経営の方向性が固まったのである。

 山根オーナーらは、所有者が古民家を壊して駐車場にしようとしていたところを店舗5軒が入る「長屋再生複合ショップ惣」として再生。山根オーナーはこのプロジェクトの中心メンバーとして、築100年超の古民家をよみがえらせたのである。

 古民家の建材を生かし、あえて傾きは補正せずに2軒の古民家を接合して補強する工夫で補修箇所を減らした。また国交省の都市緑化フェアで長屋のまちの緑化を提案。屋上緑化を施して大臣賞を受賞。現在では隣にも拡張し、9店が入居し、観光客にも人気のスポットとなっている。

 資金面でも新たなアイデアを生み出した。「まず、再生に関わる人が古い建物を一括して借り上げてリノベします。再生後は賃貸などで活用してオーナーに一定金額を支払うサブリース方式を導入しました。これなら、不動産事業者が転貸で事業運営もしながら、オーナーも古い不動産を持ち出しなく活用することができます。このノウハウは他地域の再生案件にも浸透していきました」(山根社長)

 「惣に関わり、古い不動産を活用してまちづくりに役立てる、建物の用途はその場所が生かせるように柔軟に変えていけると二つのことを学びました。これは非常に大きな経験でした」と山根社長は語る。

 このプロジェクトをきっかけに、山根オーナーは不動産によるまちづくりの魅力に取りつかれたのだ。「不動産事業はまちに与える影響がとても大きい。そのため事業自体のイメージは極端に良くも悪くもなり得る。それならば、自分は不動産事業のイメージを良いものに変えるような不動産経営をしていこう」と決意したのである。

大阪はすてきな場所 収益を大阪の発展に生かす

 山根社長によると、まちづくりに必要なものは、情熱だという。「不動産賃貸事業の強みは、仕事を通じてまちづくりを考えられることです。まちを思う気持ちを少しずつ仕事に反映し、家主一人一人がまちに関わっていくと、日本の社会はずっと良くなると思います。私の場合は、大阪をすてきな場所だと知ってほしいという気持ちがモチベーションになっています」と山根社長は話す。

 もちろん、事業を続けるにはお金を稼ぐことが必要だ。そして、お金を稼ぐことは悪いことではないと山根オーナーは強調する。「人は、何か助けてもらったから、自分にないものをくれるから対価を支払います。そもそもお金は感謝の表れであると考えています」(山根社長)

 肝心なのはその使い道だ。世の中は、お金がある人とない人に分かれてしまう。山根社長は「お金がある人が何かにチャレンジしてまちを良くする。これはお金を持っている人の責任です。父が始めた事業は幸い順調なので、まちが豊かになる取り組みを進めていきたいと考えます。今後は私が確立したまちづくりのノウハウをエリアのほかのプレーヤーにも広げていけたらと思っています」と話した。

(2025年 4月号掲載)

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