<いまを生きる文化財>
築95年の建物を「経営」する
都内唯一の宿泊できる文化財-西郊
東京・荻窪にある「西郊」。築95年の木造建築である本館は旅館として営業している。同敷地内にある新館「西郊ロッヂング」は築88年ながら現役の賃貸物件で、空室が出ればすぐに次の入居者が決まる人気物件だ。昭和時代の大工技術の粋を凝らした建物を大切に保存することで、時を超えて現役で愛される物件であり続ける。


東京・新宿から電車でわずか10分程度の距離にもかかわらず、どこかのんびりとした雰囲気を感じさせる荻窪。かつて多くの文人が住んでいたこの土地に、往年をしのぶことができる建物がある。それが西郊だ。
登録有形文化財に指定されている同建物は、大小12室の和室と宴会場を持つ旅館として経営される本館、そして1K11戸の賃貸住宅である新館の2つの建物で構成されている。旅館は「現在都内で宿泊できる唯一の文化財」として、国内外の建築家や研究者が宿泊するだけでなく、近年では老若男女問わずいわゆる「昭和レトロ」ファンがこぞってやって来る。
新館は空室が出ればすぐに次の入居者が決まるほどの人気物件。そして一度入ると長期入居になるのが特徴だ。20代で入居して40代まで住み続けた人も複数いるという。
このように、今なお人々の心を引き付ける魅力を持つ西郊。ただ単に歴史があるというだけではここまで愛されることはなかっただろう。そこには初代の建物や意匠に対する熱意があったからこそ、現代でも人々に支持されているのだ。
宮内庁勤めゆえの目利き力 戦後の改築時にも生かされる
西郊の初代オーナーである平間美喜松氏は宮内庁の営繕課に勤めていた人物。もともと東京の本郷で和室の下宿を開いていたが、1923年の関東大震災で家や下宿が焼失したことを機に、当時はまだ別荘地だった荻窪に居を移し、31年新たに下宿を建てた。それが西郊の本館だ。
「その頃の荻窪は洋館の別荘ばかりで、西郊は当時都内で初といわれている全て洋間の下宿としてオープンしたそうです」こう話すのは美喜松氏の孫で3代目である現オーナーの美民氏だ。
美喜松氏は天皇家の御用邸にも出入りしていた。そのため、当時ヨーロッパで流行の最先端だった建材に精通しており、取り扱うことも多かったという。そこで、西郊でもそうした建材を採用した。今でも目にすることができるのが、正面玄関を入ってすぐ右手にあるマントルピース(暖炉の飾り枠)の縦じまタイルだ。
- 本館、新館共に2009年に有形文化財に登録された
- 1931年当時、最先端だったタイルを使ったマントルピース
「宮さまや伯爵家などのお屋敷では外壁一面にこのタイルが使われていますが、庶民の建てるものではこれくらいが精いっぱい…という高級なものだったようです」(平間オーナー)
下宿としての需要が増えたことで、7年後には敷地内に同じく2階建ての木造の新館「西郊ロッヂング」を竣工した。こちらも洋風の造りで、11戸の下宿として経営を開始した。西郊は当時としては珍しく、全室施錠のできる部屋だった。「下宿」といってもいわゆる貧乏学生ではなく良家の息子たちが住まう高級下宿だったという。
そういう意味では、近所でも目を引く建物だったのだろう。第2次世界大戦中には焼夷弾が西郊のすぐ近くに落ちた。だが「近所の人が総出でバケツリレーで消火してくれたそうです」と平間オーナーは語る。
こうした近隣住民の助けもあって、木造でありながらも戦禍を生き延びた西郊。戦後になって大きな変化がもたらされる。それが下宿から旅館への経営転換だ。
「宴会のニーズが高まり、お座敷のある旅館を営むことになったのです。それに合わせて内装も和の佇まいにつくり替えました」(平間オーナー)
この時に改装された本館内部が、現在見られる西郊の姿だ。1階には4つの部屋をつなげて中庭に臨む座敷をつくった。2階には12室の客室がある。
「洋風の下宿を和の旅館に変えるといっても、当時はまだ入居者もいましたから一度に全部を改修することはできませんでした。そこで昭和20年代から40年代初頭にわたって改修することになったため、少し建築様式も変化しています」(平間オーナー)

格子戸をくぐると本館の正面玄関だ
例えば、廊下側の窓がそれだ。羽板を並べたよろい窓(現代でいうところのルーバー)の後ろにすりガラスがはめられている。
「風を通すためにガラスを開けると廊下から中が見えてしまう。それでよろい窓を付けているのですが、これは40年代に改修した部屋にはありません」(平間オーナー)

1階の座敷は、現在なじみの会合にのみ貸し出している
- 風通しを考えてつくられたよろい窓
- 石畳の室内廊下では静けさを感じる
各室の天井にも趣向が凝らされている。例えば「松の間」は2つの部屋を1つにつくり替えた部屋で、それぞれ趣向の違う天井を持つ。手前は「網代天井」と呼ばれるもので、スギやヒノキを薄く削ったものを編んで組まれている。茶室などに用いられる技法だ。
奥の部屋の天井は「船底天井」。天井の中央部分が逆V字型になっているのが船の底のように見えることからこの名で呼ばれている。数寄屋造りの建築でよく見られる天井だという。今ではとても再現できない、当時の大工の技量が惜しみなく生かされたしつらえだ。
「祖父もいいものをつくるためにはお金に糸目を付けなかったようです」(平間オーナー)
那智黒石を使用した石畳の廊下も、部屋に設けられた丸窓も、今となってはつくれる大工がいない。
「昭和の大工は木の見立ても使い方もよく知っていました。また材料もすべて国産。木は、生まれた環境と異なる場所に持ってくると反ってしまうなどの不具合が出るそうです」(平間オーナー)
技術も建材も最高峰のものを用いたからこそ、現代でも色あせない建物であり続けることができるのだ。
バブル期の建て替え提案 断り続けたことで今がある
旅館としての経営も順調な折、世の中がバブル景気に沸くようになると、西郊には次々と見知らぬ不動産会社が顔を出すようになった。
「どこの誰ともわからない人が銀行の担当者だという人と2人で急に訪ねてくるわけです」(平間オーナー)

駅から徒歩7分で330坪の土地ともなれば、多くの不動産事業者が関わりたいと思ったことは想像に難くない。「庭をつぶしてマンションを建てたほうがいい」「旅館ではなくてビジネスホテルを建てましょう」など実に多くの打診があったというが、平間オーナーは首を縦に振ることはなかった。
最大の理由は「一度壊したら、二度と同じ建物は造れない」ことがわかっていたからだ。
「バブルの時代は全国でたくさんの物件が建てられていました。それだけ職人の数も手薄になっていたということ。そうした状況でいいものをつくることなどできないでしょう」(平間オーナー)
周辺では、古い家を壊して収益物件を建てる人たちもいた。その機運に乗って同じようにマンションにすることもできただろう。だが、昭和初期の職人技、その粋を極めた建物は単なる古い建物ではない。再現困難な資産なのだ。「壊したが最後、同じ価値はつくれないと思いました」と平間オーナーは言う。
そのため、99年に新館を賃貸住宅としてリノベーションすることを決めた際にも、できる限り元の建材を残すことを念頭に置いた。専有部はフローリングに改修し、トイレと2点ユニットバス、1口コンロの簡易なキッチンを設置するなど実用的なものを整える形でリノベを進めた。
- 丸窓がある部屋も趣きを感じさせる
- 戦後の改装で床もすべて桜の無垢材で寄せ木細工にした
一方で、共用部はエントランスから上がる階段を筆頭に天井のランプ、廊下の窓枠とそこにはめられたダイヤガラス、そして各戸のドアの上にある部屋番号を表す真ちゅうのプレートはそのままにした。
各戸のドアを見ると、小さな窓がある。
「中から倒すと半開きになるこの小窓は、部屋の換気のために付けられていたそうです」(平間オーナー)

昭和初期は結核患者も多かった時代。複数の人が集まる場所で1人でも発症者が出ては危ないということで、換気しやすい工夫がされていたのだとか。こうして、歴史の語り部たることが、新たな価値として入居者の心を引き寄せるのだ。
既存の、しかも古い建物を生かしながらのリノベは予定よりコストがかかった。「かけた費用に少々足せば新築の3階建てがつくれますよと事業者から言われたほどです」と話す平間オーナー。しかし「こんなはずではなかった」と思いたくなかったのだという。単に実用性を高めるのではなく、古い建物の価値を再編成するリノベだった。
建て替え必須とは限らない 建物の価値のありかを考える
80歳を目前に控えた平間オーナー。あえて子どもたちには「事業承継」という形で話をしてきているわけではない。
口に出しては言わないものの、近所に住む子どもたちも折に触れ、平間オーナーがどのような思いで西郊を経営しているのかを目にし、耳にしている。
- オートロックという現代の設備と昭和初期のままの窓枠
- 賃貸住宅へリノベしても共用部はできる限り元の建材を生かした
「経営は時代で変わっていくでしょう。とはいえ、次の世代にバトンを渡すときは、子どもたちも初代から続く建物を大事にする気持ちはわかっていると思います。そのため私たちも安心しています」(平間オーナー)
築古物件を所有していると、どうしても「建て替え」が目の前にちらついてしまう。

新館の銅板ぶきドーム屋根は、野方に今も残る旧野方配水塔をイメージしている。 美喜松氏が同配水塔の建設に携わった関係で生まれた屋根のデザインだ
だが西郊のように「その建物にしか出せない価値は何か」を考え、その価値を引き出すことを念頭に、できることを考えるのも経営上の選択肢の1つになる。
「もし私が不動産事業者の話に乗ってここをビジネスホテルに変えてしまっていたら、きっとバブル崩壊とともに経営も駄目になっていたのではないかなと考えます。この建物であり続けるからこそ、旅館のお客さまや入居者の方々が選んで下さるのでしょう」(平間オーナー)
(2026年7月号掲載)






