<<地方から全国へ>>
四日市駅前の土地で育んだ家業
3代で伸ばし、全国展開のホテルへ
グリーンズは全国119カ所で1万6796室のホテルを経営している。そのほとんどは地元オーナーから土地と建物を借り上げて運営している「リース方式」によるもので、同社は「ホテル事業で地元をつくり上げていきたい」と考えるオーナーとの付き合いを大切にしているという。そんな同社は、今は年商約500億円の上場企業だが、始まりは祖父の興した一軒のすし店だった。歴代3人の社長が、それぞれ時流に合わせて少しずつ事業の質を変えながら成長させてきた。
グリーンズ(三重県四日市市)
村木雄哉社長
現在
リース方式主軸に運営 全国で1万6796室を展開
グリーンズは現在、日本全国で2つの形態でのホテル事業を展開している。
1つ目の形態は「コンフォートホテル」を中心とする世界的ホテルチェーン、米チョイスホテルズインターナショナル(CHI)のフランチャイジーとしての事業だ。
グリーンズの子会社がCHIとマスターフランチャイズ契約を結んでおり、チョイスブランドのホテルを全国主要都市で運営している。これはコンフォートホテルのブランドを日本国内で独占的・優先的に使用できるという契約だ。
もう1つが、三重県を中心に展開するオリジナルブランドだ。「ホテルエコノ」や「グリーンホテル」など、既存建物の基準がコンフォートホテルに満たない、ホテル名を維持したいなどの理由がある場合は、FC契約を結ばずオリジナルブランドとして展開している。
2つの形態を合わせた客室数は26年4月末時点で1万6796室だ。
2025年6月期の業績は売上高が496億4500万円、営業利益が63億600万円となっている。コロナ禍こそ3期連続の営業赤字を計上したこともあったが、現在は業績も回復し今後の業績予測も明るい。
グリーンズの場合、運営するホテルの多くで「リース方式」を採用している。創業の地にある「コンフォートホテル四日市」ほか、自社所有のホテルは7棟にとどまり、基本的に地主らの土地オーナーが建てたホテルを賃借する経営方針だ。つまり、多くのホテルはその地の不動産オーナーの協力の下で成り立っているという。
- 25年12月に開業したコンフォートホテルERA札幌北口。ライブラリーカフェでは仕事や勉強もできる
オーナーは賃料収入を得て、同社がホテルを運営する。オーナーが受け取る賃料の決め方は3種類で①固定賃料②固定+変動賃料③完全変動賃料がある。固定賃料は手堅く収入が得られるが、変動賃料ではホテルの売り上げによっては固定賃料よりも高い賃料が得られるという仕組みだ。オーナーの考え方次第で選ぶことができる。
以前は固定賃料が主流だったが、現在の契約割合は固定賃料が50%、固定+変動賃料が25%、完全変動賃料が25%となっているという。
新築ホテルを建てる場合の土地の選定から開業までの基本的な流れは、以下のとおりだ。
まず、土地オーナー側からの申し出や同社からの声かけ、あるいは仲介会社などからの紹介で、その地でホテル事業を行うかどうかの検討が始まる。
「土地の面積や近隣状況を調べて、過去のデータなどと照らし合わせることでターゲットや需要を予測します。そのうえで、長期的に安定して多くの利益を出すために最適な客室面積と客室数を想定します。それらを踏まえて当社から賃料を提示し、オーナーに建築コストや借入金(金利や返済金額、期間など)を見比べて検討してもらうという流れです」と同社の村木雄哉社長は話す。
その後、商談がまとまれば着工、オペレーションスタッフの確保などを経て開業となる。「この土地にホテルを建てたらどうか」という検討が始まってから、早くて2年、通常であれば3~4年かかる大プロジェクトだ。
「手がけた案件は順調に収益を上げており、オーナーの中には、当社で建てて良かったので別の場所でもう1〜2棟運営したいというリピーターもいます。当社と出合えて良かったと思ってもらえているのではないでしょうか」(村木社長)
過去
ホテル事業の選択から多角化、全国展開へ
①祖父が創業
今は大ホテルチェーンを手がける同社だが、元をたどれば祖父・村木吉男氏が東京で始めた一軒のすし店「碇寿司」までさかのぼることができる。
すし店は繁盛していたが、第2次世界大戦が勃発。戦後、祖父は東京から地元・三重に戻り、三重県四日市市でウナギ屋を始めた。屋号は「川魚むら木」。地元では知られた食事処だったという。幼少期の父もウナギ屋を手伝っていた。ところが、商売は順調だったものの実はウナギ屋は重労働。戦争の影響なのか体が弱かった祖父の体力は限界を迎えつつあったのだという。
- 祖父母が東京で営んでいたすし店。当時では珍しい木造3階建ての店舗兼住宅だった
そこで祖父は1957年にウナギ屋をたたみ、四日市駅前の土地を購入して「新四日市ホテル」を建てた。それが村木家のホテル事業の始まりだ。
「タイミングも良かったのだと思います。56年に近鉄名古屋線の改良で諏訪駅が閉鎖され、四日市駅が開業したばかりでした。名古屋駅から30分ほどで来られるようになり、ビジネス・観光の拠点として盛り上がっていくだろうという確信があったようです」(村木社長)

祖父が創業した駅前旅館新四日市ホテル
狙いどおり、当初から立地の良さを生かして旅館として利益を上げてきた。さらに64年には東海道新幹線が開業し、東京︱名古屋間のアクセスが良くなったことも追い風となった。このタイミングで同社は朝食・夕食の提供をやめた新しい営業スタイルを採用し、これが評判になったのだという。
「高度経済成長期の到来で四日市市内に飲食店が増えたこと、アクセスが良くなり食事を名古屋で済ませたり、別の店でと考えたりする人が増えたことで、ホテルが提供する食事の需要は減ったと判断したようです。フルサービス型のホテルから宿泊主体型のホテルへ業態変更することによって宿泊料金もリーズナブルにでき、利益も上がりました。時代の求めに応じて商売のやり方を変えたのです」(村木社長)

建て替えにより、貸しホールやレストラン、バーを備えたビジネスホテルに
②父が多角化にチャレンジ
70年、祖父は若くして亡くなった。その後を継いだのが父の敏雄氏だ。64年から家業に入っていた父は、社長就任後に多店舗化、他業種参入へ果敢にチャレンジした。
父は後継ぎとなることを意識して東京のビジネスホテルで修業し、研さんを積んでいた。それに加え、四日市市は岡田屋(現イオン)の創業の地だったことから、その縁で父はジャスコの運営方式、チェーンストア理論を学ぶ機会を得たという。経験を積み、将来の事業の拡大を夢見た父は精力的にチャレンジを行った。
「祖父が早くに亡くなったこともあり、父は地域の名士と積極的に付き合い、青年会議所の理事長を務めるなどしていました。そこで新たなビジネスのアイデアを得たり、その縁でホテル用地や建物を借りたりしていたようです」(村木社長)
父は三重県内に「グリーンズ」の名を冠したホテルを増やしたほか、レストランやキャンプ場、バーなどを次々と展開していった。うまくいった事業もあれば、いかなかった事業もあったが、父のチャレンジにより、同社は四日市市の一ホテルから三重県の有力企業へと歩みを進めたのである。
今につながるという意味で、父がもたらした最も大きな縁がアメリカのホテルチェーンとの出合いだった。99年、父がたまたまCHIの日本支社長と知り合い「京都でコンフォートホテルを1店開業してみよう」と即決したのだ。

CHIとマスターフランチャイズ契約を締結
決断の速さとチャレンジ精神が買われ、2003年にアメリカ本国のCHIが日本支社をたたむ際、同社はアメリカ側から日本のマスターフランチャイジーにならないかと声をかけられることになる。コンフォートブランドの展開は、同社が全国展開を行うためのいい材料となった。
■社名には父の事業への思いが込められる
父が増やしたホテルやレストランには「グリーンズ」の名前が付けられた。新幹線のグリーン車のように高級感があり、当時「グリーン」と名が付くものがはやっていたこと、爽やかでフレッシュなイメージであることからきている。また父が目指したのはホテル事業よりも幅の広い「ホスピタリティー事業」。1987年に社名を改めた際はホテルの文言は入れずに「グリーンズ」とした。
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③現社長が全国展開へ
全国展開のチャンスをものにしたのが現・村木社長だ。
03年に、グリーンズの子会社であるチョイスホテルズジャパンがCHIとマスターフランチャイズ契約を締結。グローバルブランドのコンフォートホテルを中核に、全国規模でのホテル展開にかじを切った。この頃から村木社長は常務として経営判断に関わるようになっていたという。
03年には同社の運営室数は3575室ほどだったが、10年には1万1072室と順調に事業を成長させていった。17年の東証2部上場へとつながっていく上昇基調だった。

ほかのホテルを引き継いでリブランドオープンしたコンフォートイン塩尻北インター
18年3月に東証1部上場を果たし、同年9月には社長に就任。父は名誉会長となった。「上場に際しては、過去の経験から、しっかりした財務基盤を得て組織的な経営をしたいという目標がありました。もう1つ、会社を永続させていくために、プライベートからパブリックに切り替えていこうという思いも強くあったのです」(村木社長)
順風満帆な中にも、さまざまな苦難はあった。
社長就任後の一番の危機は何といってもコロナ禍だ。20年4月の稼働率は20%台に落ち込んだ。こんなピンチは六十数年の歴史の中で初めてのことだったという。そして、コロナ禍は長くは続かないと読んだ村木社長は、経営が悪くなったほかのホテルの運営を引き継ぎ、あえて規模を拡大させる勝負に出た。しかし、コロナ禍は長引いた。
資金は減り、借り入れを行った結果、債務超過に陥ってしまったという。日本政策投資銀行に第三者割当増資で優先株を引き受けてもらったり、ホテルで軽症者の受け入れを行ったりするなどして、何とかコロナ下を耐え忍んだという。
「土地オーナーにも助けてもらいました。どうしても経営が厳しかった時は、一時的な賃料減額の協力をお願いしたこともあったのです。他社では、賃料の支払いを止めてから強引に交渉をしたケースもあったようですが、そんな荒っぽいことをするつもりは一切ありませんでした。しっかり説明したのが良かったのか、それで離れていったオーナーはいませんでした。ありがたいことです」(村木社長)
3年間でトータル150億円のマイナスが出たものの、アフターコロナでは事業環境が劇的に改善した。それに加えて、コロナ下で規模を拡大した結果が出た形で、マイナス分は25年の9月には早くも取り戻すことができたという。
「記録に残っていないだけで、祖父の時代も、父の時代も幾多の危機を都度乗り越えてきたのだろうなと感じました。私の代でも、会社の永続・成長にこだわって経営していきたいです」(村木社長)
■若き日の武者修行、一従業員からのスタート
村木社長は家業に入る前に大学でホテル経営を、その後、専門学校で実務を学んだ。卒業後は神奈川・箱根の「富士屋ホテル」で2年間修業し、さらにアメリカのコーネル大学のサマースクールでホテル業界の最先端を肌で感じた。
それでも1998年に実家に戻った際は一従業員からのスタートだった。「朝から晩までハンバーグをこねていましたね。フロント業務を担当していた時には『鈴鹿サーキット』のレースのある日に24時間勤務も経験しました」(村木社長)
未来へ
時代を捉えた在り方でエリアに資する事業を
全国規模の上場企業となった今も、本社は変わらず四日市市のままだ。祖父が新四日市観光ホテルを建てたその場所である。
創業の地に根を張りながら、今や商圏は全国。中期的な目標として運営室数2万室、その前の一つの節目としてまずは1万8000室を実現するのが目標だ。コロナ下のマイナスを取り戻した今、再び事業拡大を加速させている。
「祖父の時代、父の時代と、当社は時代の変化を捉えて、それに柔軟に対応して残ってきたのだと感じています。経営が安定していると、現状維持に甘んじたくなる。しかしそれではいけないのです。時代は常に変化し続けています」(村木社長)

25年11月に開業したコンフォートホテル水戸
同社は「未来へ新たな旅を踏み出そう」というキーワードを掲げ、全社一丸となってしっかり挑戦していくという。
室数を増やすにあたっては、その質も重視している。「地主や事業会社で、その土地を盛り上げたいと考える人とお付き合いしていきたいです。1回の賃貸契約は20〜30年ですが、ホテルの建物は50年、60年と使い続けられるものです。契約期間を超えても安心して付き合い続けられる相手であれば、建て替えや投資などの戦略も練ることができます」(村木社長)
紡いだ歴史の上に立ち、新しい挑戦をしている今、同社が求めているのは「この土地を生かしたい」という地主と長く付き合うことだ。
創業の地で育てられてきた同社だからこそ、地域貢献や永続性への思いは強い。

(2026年6月号)












