― 老舗企業と不動産 ―
資産を築き、文化をつなぐ
不動産で実践する三分法と三方よし
ツカキグループは江戸の昔から京都で着物の卸売事業を行う老舗企業・塚喜商事をはじめ、現在では不動産事業を含む複数の事業を展開。それぞれの事業のポートフォリオを緻密に計算している。当代の塚本喜左衛門社長の考えの基になっているのが、幼い頃から祖父母にたたき込まれた「近江商人の魂」なのだという。
ツカキグループ(京都市)
塚本喜左衛門社長

本業を守るための教え 資産を3つに分ける
京都市下京区、四条烏丸。京都を代表するビジネス街であり、金融機関や大手企業のオフィスが集まるこの街の中心に、ツカキグループの本社がある。
着物卸売事業と西陣織メーカーである塚喜商事は、グループで最も歴史があり、その祖業は慶応3(1867)年までさかのぼれる由緒ある企業だ。

▲ツカキグループの本社ビル
その他、グループでは宝飾・毛皮・バッグ製造卸のツカキ、きもの卸と加賀友禅卸しメーカーである京都和装、京友禅メーカーの「京朋」、補正下着製造卸のタムラと幅広い商品を扱っている。
さらには塚喜商事、ツカキそして京都産業センターにて不動産リース事業を展開。京都と大阪、東京、九州を中心に70棟のマンションやテナントビルを所有している。
新型コロナウイルス禍前後から海外での不動産事業も開始。2017年から現在まで、米ニューヨークに3棟のマンションを購入した。25年には、ハワイのワイキキビーチに臨む「アウトリガー・リーフ・ワイキキ・ビーチ・リゾート」内に「カハワイ・チャペル」を竣工。関連会社のツカキ・ログノート・ジャパンが運営する形でウエディング事業にも乗り出した。
直近では不動産から派生した旅館事業も開始。京都と東京に「Guesthouse HIVE」を3カ所運営している。
26年7月度の決算では72億100万円の売上高を計上した。そのうち着物事業は40・4%、宝飾事業などが26・8%、そして不動産リーシング事業が37・8%を占める。
同社のポートフォリオを塚本喜左衛門社長は「近江商人に伝わる三分法」にのっとったものだと説明する。
「近江商人は昔から、商いをやるなら財産は3つに分けておけと言ってきました。現代的な感覚で言うなら『預金』『土地』『株』です」(塚本社長)
そこで、この三分法にのっとり、まずは①祖業である着物②自身の代に起業した宝飾・毛皮・補正下着③これからの事業である不動産の3つを本業の柱にすえた。そのうえで、それぞれの柱を成長させて、社会的・経済的な危機が起きても会社を守ることができるという考えだ。
そして、次は会社の資産を3つに配分する。それが「本業」「金融資産」「不動産」だ。さらには金融資産を「預貯金」「株式」「債券」ほかに分け、不動産も「オフィスビル」「商業施設」「賃貸住宅」、かつエリアを「京都・大阪・滋賀」「東京・仙台・九州」「海外」に分散させている。
事業と資産をそれぞれ3つに分けて考え、リスクヘッジを行う。こうした近江商人の哲学を徹底的に教え込んだのは、幼少の頃、多くの時間を共に過ごした祖父母だった。

祖母から聞く先祖の話 近江商人としての礎となる
初代と2代目の塚本喜左衛門はいわゆる半農半商だった。琵琶湖の南東にあった近江国五個荘(現在の滋賀県東近江市)にて、農業の傍ら、麻織物の販売をしていたという。
塚本家が本格的に商売を始めたのは3代目の時代だ。1867年に3代目は呉服問屋「塚本喜左衛門商店」を創業した。
明治時代に入ると3代目は商売の地を京都に移した。現在も本店のある四条烏丸に本店を構えたのは1895年のことだった。
1921年には祖父が家督を継ぎ喜左衛門の名を先代から襲名した。
「かつて生糸(絹)産業は日本の外貨を圧倒的に稼いだ主力産業でした。創業者をはじめ、歴代の経営者たちは『われわれは産業の主役だ』という気概をもって本業を大きくしていったと思います。昔は国内でも、老若男女みなが着物を着ていました。そしてわれわれの会社は座布団や布団を含め、繊維製品全般を扱っていたわけです」(塚本社長)

▲祖父(左)、そして父と共に
まさに中心産業の担い手として事業を大きくしていく中、第2次世界大戦終結の翌年1946年に父が5代目を継いだ。
「塚本家の自宅は五個荘にありました。父は自宅から京都の本社まで毎日通っていたので忙しく、母も家の仕事にかかりきり。となると、私たち子どもは祖父母と過ごす時間が長くなりました」(塚本社長)
特に祖母は子どもたちを厳しく育てた。毎朝3時半に起きて、祖母と共に仏壇にお経をあげる。学校から帰ってくれば、祖母へあいさつ。そのまま説教が始まった。また折に触れて、先祖代々の肖像画を指しながら「創業者のおじいさんが商売を始めはった折の苦労は…」「相場や株でしくじった時は…」など、先祖の成功の秘訣(ひけつ)や危機に対処したときの苦労話を繰り返し聞かされていたという。
「そうした先祖代々の話を口づてで聞きながら『倹約しろ』『人の倍働け』といった近江商人の哲学を教え込まれたわけです」(塚本社長)
塚本少年が祖父母から近江商人としての教えを受けている間、父である5代目は京都以外のエリアで支店を開業すべく、東京、福岡、札幌などに不動産を購入していった。
「事業の広がりとともに拠点が増えます。 その時に社屋が必要ですし、場合によって社宅も必要になる。こうして不動産事業の原型が各都市にできました」(塚本社長)
このエリア展開が、のちの不動産取得の足掛かりとなるのだった。
- ▲ニューヨークに購入した物件
- ▲ハワイではウエディング事業を開始
着物事業が不況となる 新規事業の立ち上げにまい進
塚本社長が家業に入ったのは1973年、25歳の時だった。その2年後にはツカキを設立し、宝飾・毛皮事業に乗り出した。折しも、着物事業が不況で苦境に立たされた時期であった。祖父や父の時代のように、今後、呉服事業をさらに成長させていくのは難しい…そう考えたことで本業を守るために三分法の実践としての新事業展開だった。
84年には37歳で6代目塚本喜左衛門を襲名した。そこからの事業展開は、冒頭で紹介したとおりだ。不動産においては、父の代と比較すると6倍近い棟数になっている。
「利益が上がればその分を再投資します。不動産でいうと、仮に投資額の1割が利益であったとして、10棟持っていたら1年で1棟分の利益が出るため、その分を次の1棟に再投資する。その繰り返しです。なかなか本業はそう理屈どおりに利益が上がらない一方で、確実に利益を得られるのは不動産です」(塚本社長)
塚本社長の代ではもちろん売却も行っている。その目線には「火事場、つまり商売の危機に真っ先にかけつける」という塚本社長のモットーが色濃く表れているといえる。
「父が購入した東京都八王子市のビルがありましたが、ほかの都内所有物件と距離があったのでなかなか物件の修理や点検に行けませんでした。ある年、ようやく点検に行った時に、物件周辺の様子があまりに変わっていて、自分の物件がどこにあるのかもわからない状態。どれだけ長い間、訪れていなかったのかと痛感し、猛反省しました」(塚本社長)
自分の目でしっかり確認できない物件は、対応が後手に回りトラブルの温床にもなりかねない。こうした考えから、物件を保有するエリアは分散させるものの、エリアごとにある程度まとまった場所に物件を集中させていったのだった。
被災地仙台で実践 世間よしで社会貢献
塚本社長が受け継ぐ近江商人の魂を語る上で、もう1つのキーワードがある。それが「三方よし」だ。
買い手が喜ぶ品を売ることは「買い手よし」、品物を売ることでもうかることは「売り手よし」につながる。そして、そのもうけを社会貢献として還元することで「世間よし」を実現する。これが三方よしの理念だ。塚本社長は、それを仙台市で実践している。2011年に起きた東日本大震災をきっかけに、被災者向けの賃貸住宅を手がけるようになったためだ。

▲仙台では復興の助けとなる物件を運営
12年に1棟目の賃貸物件を竣工。しかし、当時は復旧工事や防波堤工事が行われており、ゼネコンの人手は住宅の建築には回ってこなかった。そこで中古物件を取得し、提供する方向にかじを切った。
「当時、東北地方の経済は大きく落ち込んでいました。そのため、金融機関や上場企業が所有していた社宅を手放さざるを得ない。そこでそうした物件を当社が引き受けたのです。社宅を購入し、リフォームして賃貸マンションに変えていきました」(塚本社長)
毎年、1棟ずつ仙台市で賃貸マンションを増やしていき、現在は11棟を管理・運営している。震災から15年たち、現在は同地で賃貸物件を提供する意味合いも変わっている。
「東北地方に新しい産業を生み出そうという政策の中で、自動車や半導体の大手がどんどん工場を造っています。大手が工場を造ればその下請け会社も集まってくる。つまり人が進出してくるということで、圧倒的に住宅が足りなくなるのです」(塚本社長)
当初は被災者の受け皿としての賃貸住宅を提供していたが、復興が進むにつれて今度は新しい産業を支える参入者向けの賃貸住宅を造り続けているということだ。
もちろん、仙台の物件も1棟1棟しっかり訪問して確認を怠らない。こんなところには人も呼べない、そんなふうに入居者から思われるような物件にはしたくないのだという。
「できれば、大きなトラブルになる前に、先んじて修繕などしておきたいですから。今、築年数が進んでいるマンションでは、テレビモニター付きインターホンの故障に悩まされています。今後は順次、スマートフォンに連携できるIPインターホンの導入を進めていくつもりです」(塚本社長)
文化財を商業利用 収益化が保存につながる
塚本社長が不動産で実践する世間よしのもう1つの側面が、歴史的な建物の改修と利活用だ。伝統文化の保存と再生を担うことで、社会貢献をしていきたいと考えている。
象徴的な物件は、本社ビルから徒歩で20分弱の場所、人気観光スポットでもある「錦市場」のすぐそばにある「SACRAビル」だ。2004年に京都和装をM&Aで傘下に入れた際に取得した。かつては不動貯金銀行京都支店だった建物で、国指定登録有形文化財にも登録されている。
1916年竣工の地上3階、地下1階建ての木骨れんが造りの建物は現在、化粧品販売店や美容室、雑貨店など8店のテナントが入居する人気のビルになっている。

▲レトロビルとして人気のSACRAビル
取得時はエントランス部分が「現代風」にリフォームされていたが、2020年に大正初期に近い復元を目指して改修工事を行った。
「外は大正初期のモダンスタイルとして流行した幾何学的意匠のれんが造り、中に1歩入ると日本の大工の粋を凝らした木造づくりというギャップが印象的な建物です」(塚本社長)
改修工事に先立つこと13年前の07年にはSACRAビルの北側に「SACRAアネックス(以下、アネックス)」を竣工した。
「アネックスは1~3階はテナント、4~6階はマンションです。SACRAビル自体は床面積も狭く、テナント賃料自体もそう多くは取れません。アネックスの賃料収入があることで、本館であるSACRAビルをランドマークとして保存できると考えています」(塚本社長)
歴史的な物件の再生と利活用のプロジェクトでは、ほかに左京区の「招喜庵」がある。この建物は、古くは平安時代の藤原氏の氏神でもあった吉田神社の社家が受け継いでいた江戸中期の建物だった。
その後、1943年に作庭家の重森三玲が建物を受け継ぎ、母屋と書院を保存するだけでなく、自邸の庭として作庭したり、新たな茶室を建てたりした。
重森家で相続が発生した際、塚本社長に相談が入った。重森家が書院や茶室を所有・管理し、塚本家が母屋を所有・管理することでなんとか受け継いだ屋敷を守っていきたいという話だった。
「500坪ほどの敷地のある家ですから、当然、屋敷を解体してマンションにするという話も出ます。ですがやはり300年以上の歴史を持つ主屋をつぶすというのはなかなか決心がつかない。困っている重森家から私のところに話が来たわけです」(塚本社長)
塚本社長は申し出を快諾。主屋を取得し、2006年には1億円をかけて改修し、貸し出している。
また下京区には「THE TERMINAL KYOTO」という名の、カフェとクリエーティブスペースとして活用している京町家を所有する。1932年に同地の呉服問屋、木崎商店が建てた本格的な京町家で茶室や風情あふれる庭を備える。
「こうした伝統的な日本家屋が私の元に集まってくるのも偶然と言えば偶然です。私も五個荘の古い屋敷で育った人間ですから古い建物に愛着がありますしね」(塚本社長)
偶然とはいいながらも、そこは必然でもある。塚本社長ならば、先祖伝来の建物を任せてもおかしなことにはならない…そういう信頼があるからこそ、相談の声をかけられるのだろう。
とはいえ「愛着」だけで歴史ある建物を守ることはできない。
「私が会長を務める『国登録有形文化財全国所有者の会』の会員たちとは、時折『古い物件を受け継いだ被害者の会だ』なんて言い方もするくらいです」と冗談めかして塚本社長は言う。
しかし、そこには笑っていられない実情が透けて見える。保存や修理に際して補助金が適用される重要有形文化財と違い、登録有形文化財は補助金制度がない。ただ持っているだけでは、修理コストを賄うことができなくなる時代がいずれやってくる。
所有するのが難しいとなると、解体という選択肢しか残らないが、解体したらしたで「歴史ある建物を潰した」と風評被害も起こる。
「その物件だけで収益を上げていかないとなかなか厳しい。今の世代が乗り越えられても、その次の世代が大変なことになる。だから商業活用なしでは歴史ある建物の保存は難しいというのが現実的な判断です」(塚本社長)
その実践としてのSACRAビルであり、招喜庵であり、THE TERMINAL KYOTOなのだ。
- ▲作庭家の自宅を改装した招喜庵
- ▲塚本社長が生まれ育った五個荘の本家
「善いことをすれば、必ず子孫に幸福がやってくる」
利益は社会に還元する 家訓に裏打ちされた思い
こうして、連綿と受け継がれる近江商人の魂を本業、そして不動産事業で展開していく塚本社長。当代で事業の柱を増やし、それぞれを太く成長させていっているが、それに対しては「自分の代で成し遂げたこと」という感覚はないという。
「幼い頃から祖母のお説教では『三代の図』の掛け軸が引用されました」と塚本社長は代々伝わる絵を取り上げる。一番下は、身を粉にしながら夫婦で働く創業者の姿。真ん中は創業者が築いた財を使って遊興にふける2代目。そして一番上に、没落した3代目の姿を描いた掛け軸だ。この掛け軸を見せながら、祖母は「怠けずに働け」と教え込んできたのだという。
「私は単なる次へのバトンランナーに過ぎません。すべては創業者から受け継いだ商売、そして資産が元になっていますから。次にいいバトンを渡すためには、商売で利益が出たら、次の事業に投資する。近江商人の考えをひたすら実践しているだけなのです」(塚本社長)
そして、生み出した利益はしっかり社会に還元する。それは、塚本家に伝わる家訓の実践でもある。
「わが家の家訓は『積善の家に必ず余慶あり』です。つまり、善いことをすれば、必ず子孫に幸福がやってくるという戒めです」(塚本社長)
塚本社長が保存に努めているのは文化財などの建物だけではない。24年には西陣織の技術の伝承と若手育成のための生産基地として「丹後クリエイティブセンター」を設立した。また同センターの2階、ツカキグループ本社、そして大阪リーガロイヤルホテルに「西陣織あさぎ美術館」をオープンさせ、広く西陣織の魅力を広める活動を行っている。

▲26年5月に竣工した、西陣織あさぎ美術館・大阪中之島館
設 立 :昭和24(1949)年
資本金 :1億5000万円
従業員数:261人
売上高 :72億100万円
(2026年7月期グループ全社計)
(2026年10月号掲載)

家族一丸となって承継を見据える
父が取得した不動産を守る次男
14代目として受け継いだバトンと790坪



