業種を変えてつかんだ安定経営 ―五幸

賃貸経営ストーリー

<<歴史を背負い、紡ぐ地主>>

醸造から卸、そして不動産へ 業種を変えてつかんだ安定経営

松本駅前に複数のビルと駐車場を構え、全物件を自主管理する五幸。かつては醸造を業とし、そこから卸、そして不動産へ。業種転換を重ねてつかんだ安定経営の軌跡を6代目・7代目に聞いた。

五幸(長野県松本市)
6代目 太田隆治会長  7代目 太田匠一社長

 JR松本駅から歩いて約5分。駅前に立つビルの上層部を見上げると、六角形の「亀甲マーク」を見つけることができる。中央に据えられているのは「千(※下記囲み参照」の一字。これが五幸の社章「キッコーセン」である。

 みそ・しょうゆの醸造事業から、食品の卸売事業へ。そして駐車場とビルの賃貸管理へ─。今、松本駅前に複数のビルと駐車場を構える五幸の姿は、業種を変えながら6代続いてきた一族の歩みが、たどり着いた到達点でもある。

今、五幸が持つもの 数字で見る現在地

 五幸の事業は、賃貸管理事業と駐車場事業の2本柱だ。社員は12人。松本駅前を中心に、自社で所有する物件をすべて自主管理している。

 主な所有物件は、まず1棟目となった立体駐車場「セントラルパーキングプラザビル」(敷地約580坪、352台)。続いて、低層階をテナント、高層階を住居とした「五幸本町ビル」(敷地約175坪、テナント3戸および住居16戸を含み、五幸の本社も入る)。各階1店舗の「五幸神明ビル」(敷地約40坪、5階建て)。そして、30年の事業用定期借地で貸す「東横イン松本駅前本町ビル」(敷地約270坪)がある。

 このほか、もともと別事業で使っていた延べ床面積290坪の倉庫(敷地約450坪)と、長野県岡谷市に「クスリのアオキ」が入る平屋のテナント物件(敷地約690坪)がある。また、直近では2025年8月に取得した松本駅前のテナントビル「ロングタイムアベニュー」と駐車場が所有不動産に加わった。特徴的なのは、これらの大半が「自ら建てた」新築物件であることだ。

 「当社が所有しているビルには、全部当社のマークである『キッコーセン』を付けるようにしているんです」(匠一社長)

 駅前に並ぶ亀甲マークは、五幸の所有物件の〝目印〟でもある。

 不動産部門の年間収入は、およそ3億円規模。中でも立体駐車場の比重が大きい。物件はほぼ満室で稼働し、自主管理を貫くことで利益を最大化させている。

「管理会社に依頼すると、全物件で5%くらい収益が減ると思います。この規模になると、その5%は相当大きい」(匠一社長)

 保有資産の質もいい。例えば五幸神明ビルはすでに返済を終えており、表面利回りは15%ほど。25年に中古で取得したロングタイムアベニューに至っては、借地上の物件でありながら表面利回りは約20%に達する。「今、新築を建てると、この数字はまず出せません」と匠一社長は言う。

 ただし、隆治会長と匠一社長の2人は現状に満足していない。隆治会長は3億円という数字を「金額としてはすごい。でも、企業として投資している割には効率が良くない」と、収益効率の向上を次の世代への宿題に挙げている。現社長の匠一社長も「全物件が埋まっているので、良くも悪くも、今が売り上げの頭打ち」と現状を冷静に見る。

 現在のこの五幸の姿は、どのように形づくられてきたのか。話は、はるか祖業の頃にさかのぼる。

五幸のキッコーセン

 五幸の社章は、キッコーマンでおなじみの亀甲と同じ意匠だ。キッコーマンが亀甲の中に「万」を入れるのに対し、太田家は「千」を入れて「キッコーセン」と呼んだ。キッコーマン製品の特約店だったことにあやかり、1桁下げて「千」としたと伝わっているという。
 実は隆治会長は、先代から会社を引き継いだ時、社名もこのマークも消してしまうつもりでいた。それを引き止めたのは、周囲の人々だった。
「おまえが今ここにいるのは、先人のおかげだろう。残してきた足跡を全部消すのはいけない、と言われたんです。会社の色は経営者の考えで変わっていい。でも歴史は、なるべく消さないようにと」(隆治会長)
 結果として「残して正解でした」と隆治氏は振り返る。長く付き合いのある大成建設は、ビルを建てるたびにこの亀甲マークを「サービスですよ」と言いながら取り付けてくれた。東横イン松本駅前本町ビルの上にも、今そのマークが光っている。

 

小谷村から松本へ 太田家の始まり

 太田家の初代は、現在の長野県白馬村の北に位置する小谷村の出身だという。松本市へ出てこの地に居を構え、運送事業や外車の輸入事業など、その時代に合った商いを手がけながら、太田家は松本に根を下ろしていった。「時代に敏感でね。その時々に合った商売をやってきたんです」と隆治会長は先祖を振り返る。

 転機は4代目の頃。第2次世界大戦中から戦後にかけて、みそ・しょうゆの醸造事業を本格的に始める。現在の本社や本社横の公園の辺りに蔵を構え、こうじ作りから醸造までを手がけていた。こうした太田家の事業を担う法人として、太田商会が生まれたという。

太田商会の兄弟会社 五幸の誕生

 五幸が法人として設立されたのは1971年。当時、松本でサッポロビールの特約店をしていた会社が経営難に陥り、「どうにか助けてやってくれないか」という依頼が、当時5代目社長である隆治会長の父の元に持ち込まれたのがきっかけだった。この時、太田商会の兄弟会社として、太田商会の所有地に間借りする形で五幸が設立された。

 五幸のメイン事業は、酒類および一般加工食品の卸売事業だった。キッコーマン、明治屋、日清食品、味の素、ミツカンといった食品・調味料メーカーを中心に、前述のサッポロビールなどの商品の特約店でもあった。販売先は街の酒屋やスーパーマーケットなどだった。

6代目の決断 卸を畳み、合併する

 6代目の隆治会長は学校を出た後、東京・京橋の卸問屋「明治屋」で働いていた。家業が明治屋の商品の特約店を務めていた縁である。1982年、30歳で松本に戻り、38歳になる90年に社長に就任した。

 東京で卸売事業を学んできた隆治会長の目に、家業の卸売事業の先行きは厳しく映った。

「この事業は稼ぐのが難しいのです。ロットで商売する業態ですから、明治屋のように何千億円と売っていれば別ですが、当時のわれわれのような30億円規模の会社では十分に利益が出ない。従業員の給料も払えなくなってきてしまう。私の父はそんな苦労をしていました」(隆治会長)

 社長就任の前後、隆治会長は会社の整理に動き出す。最も大きな動きは、五幸が太田商会を吸収・合併し、2つの会社を1つにまとめ上げたことだ。さらに、採算の合わない卸売事業だけを切り出して売却した。たとえ先代から続いていた事業であっても、事業としての見込みがないのであればしっかりと判断する。経営者としての決断だった。

▲352台を収容する大型立体駐車場の「セントラルパーキングプラザ」

352台収容可能な立体駐車場を建てる

 卸売事業の売却を完了する少し前、賃貸事業へと隆治会長の背中を押したのが、松本駅前で動き出した区画整理事業だった。駅前12ヘクタールに及ぶ再開発である。その時すでに、かつて醸造所の蔵があった敷地は更地にし、屋外駐車場として貸していた。この土地の換地として所有した土地で何をするか検討した結果造ったのが、不動産事業の1棟目、97年に完成した立体駐車場セントラルパーキングプラザビルだ。

 きっかけは、後に長い付き合いとなる大成建設と設計事務所の担当者が、アポなしで隆治会長を訪ねてきたことだった。

 「駅前の土地をどうするつもりか。人が集まる場所がいいか、閑静な住宅街がいいかと聞かれたのです」。そこで、人が集まる場所にしたいという思いを伝えたことが事業用不動産の開発につながった。

 隆治会長は、屋外駐車場時代の経験を基に緻密な収支計算を行った。立体駐車場の総工費は約10億円。それに対し、何台収容し、稼働率が何%なら返済が成り立つか。この逆算の末に出た答えが352台だったという。

 また設計の肝は、立体駐車場でありながら1〜2階はテナントとし、その家賃をもって毎月の返済費用に充てる判断をしたことだ。安定したテナント賃料収入で返済を賄うことで、駐車場で得られる収入が実質的に利益として積み上がっていく感覚だ。建設から30年ほどたった現在までテナント部分はほぼ満室経営が続き、とても優秀な収益源になっているという。

 この立体駐車場の完成から程なくして五幸は卸売事業を手放した。そして、不動産の管理だけを残して、本格的に不動産事業へとかじを切っていく。

本社が入る五幸本町ビルを建設

 立体駐車場の手応えを受け、五幸は2年おきに新築を重ねていく。99年には総工費6億円で五幸本町ビルを建てた。9階建て、約175坪の大きさで、1〜4階はテナント(そのうち1区画が五幸本社)、5〜8階は各階4戸ずつ計16戸の住居とした。設計側の助言により「低層階はオフィス、高層階は住宅」と需要に応じて造り分けたという。以降、現在に至るまで五幸の所有不動産の中で住居を備えるのはこのビルだけだ。

 2001年には総工費約8000万円で五幸神明ビルを建設。これは地元企業と隆治会長との縁で手がけた1棟だという。こちらはすでに返済を終えており、表面利回りは15%ほどだ。

   ▲本社が入る五幸本町ビル(右)とその隣地を購入し建てた東横イン

本社ビルの隣地に東横イン

 05年、五幸本町ビルに隣接する土地を取得する機会が訪れた。もともと金融機関の所有地だったが、そこが経営破綻した。その時の管財人と大成建設の間に縁があり、話が持ち込まれたのだ。土地は約3億円。「当時は何をするかまだ決めていませんでした。でも、ピンときたので、取りあえず銀行に行って資金を工面し購入しました」(隆治会長)

 そこにちょうどいいタイミングで、全国を回って用地を探していた東横インの開発担当者が訪ねてきたという。この縁から「東横イン」にすることを決めた。当時、東横インとしては102棟目。総投資額は土地や建物などすべて含めて約14億円で契約は30年の事業用定期借地契約。特筆すべきは、3年ごとに賃料が3%上がる条項が、最初から組み込まれていることだ。賃料が定期的に上がる契約は珍しいが、これについて隆治会長は次のように言う。

 「こちらの条件をしっかりと提示し、それを明文化しました。そうでなければ契約しません。会社対会社は変わらなくても、担当者は変わりますからね。『知らない、聞いていない、書類がない』では困るんです」

「買う」時代 取得による拡大

 05年の東横イン以降、五幸の新築は止まっていた。「いい物件がなかった。それに、遊びに忙しくてね」と隆治会長は笑う。約20年の〝空白〟を経て再び動き出したのは、7代目・匠一社長が前面に立ってからだ。ここからは「自ら建てる」より「見極めて買う」取得の時代に入っていく。

 24年、当時は副社長だった匠一社長の判断で、隣接する岡谷市にクスリのアオキが入る平屋を取得した。敷地は約690坪だ。大和ハウス工業が土地・建物付きで持ち込んだ案件で、収支も立地も申し分なかった。高速道路のインターチェンジに近く、仮にテナントが抜けても倉庫需要が見込める。建物全体を貸し出す一棟貸しである点も魅力だった。

 25年には、松本駅前のテナントビル、ロングタイムアベニューと「城東駐車場」を匠一社長の判断で取得した。両物件を所有していたオーナーが高齢になり、後継者不在を理由に手放したものだった。テナントビルのほうは築41年のRC造で、借地の上に立つ「難しい物件」だったという。そしてその底地を持つのは、都内在住の一族だった。松本駅前一帯の土地を広く所有する旧家で「借りてくれる人がいればいい、黙っていても地代が入る」という底地オーナーだった。

 そのため、借地権の更新交渉もスムーズに運んだ。地主と借主双方のニーズがかみ合った取引である。結果として非常にコストパフォーマンスが高い取引が成立し、表面利回りは約20%に上った。「松本駅から徒歩2〜3分。借地代支払いを含めても表面利回り20%は出る、とてもいい話でした」と匠一社長は振り返る。そして25年11月、匠一社長は33歳で7代目社長に就任した。

 

これからの五幸 7代目へのバトン

 6代目社長でもある隆治会長の事業承継に対する考え方は明快だ。元気なうちに自ら会長職へ退き、相談役として匠一社長を支える道を選んだ。

 「健全なうちに引き継いだほうが、会社は健全に動く。『もう力尽きた』という時に渡されたら、次の人がかわいそうでしょう。社長は時として『俺がやる、俺がやる』と引っ張ってしまう。でも引き際は、絶対にあるんです」(隆治会長)

 借金や税金についても、独自の哲学がある。「お金は持っていないと駄目。借りても金利以上にもうければいい。ただし、返せないお金を借りてはいけない。税金については、かかるということは利益が出ているということ。損だと考えてはいけない。節税を考えるあまり、やりたいことへの勢いを鈍らせてはいけません」(隆治会長)

 そう言う隆治会長からバトンを受け継いだ匠一社長が描く方針は「自主管理」の徹底と、エリアの拡大だ。

 「自分の目で見えないところに物件を持ちたいとはまだ思いません。遠隔地に持って現地の管理会社に任せるなら、それはもう不動産でなくてもいい。証券でも債券でもいいわけです。自分で管理してこそ、利回りも良くなると思います」(匠一社長)

 自分で足を運べる範囲に絞り、その中でも手のかからないテナント物件でクスリのアオキのような「一棟貸し」を増やしていきたいという。

 そんな匠一社長に対して隆治会長は次のように助言する。

 「風船を膨らますように大きくしてはいけない。ゆっくりと、地に足を着けて着実に広げる必要がある。焦るな、でも頑張れ」(隆治会長)

 複数の事業からみそ・しょうゆの醸造、卸売事業を経て、不動産事業へ。業態を変えながらも、亀甲マークに刻んだ「千」の一字が脈々と受け継がれてきた五幸。6代から7代へ。歴史を受け継ぎ、未来を築く五幸の歩みは、これからも松本の地で進んでいく。

(2026年9月号掲載)

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