ビルオーナー物語:危機を乗り越え負債完済

賃貸経営ストーリー

ビル売却の危機を知恵で乗り越え負債を完済
地域の共助で住みやすい街を後世に

 名古屋鉄道名鉄名古屋駅の駅ビル前に、「KOMEHYO」のロゴが目を引く、ブランドリユース事業を営むコメ兵(名古屋市)のテナントビルが立つ。同ビルを所有、経営するのはむさし企業(名古屋市)。代表取締役社長は地主の3代目でもある、横山篤司氏だ。数々の経営危機を乗り越えてきた横山氏は、未来を見据えたビル経営を行っている。

むさし企業(名古屋市)
代表取締役社長 横山篤司氏(43)

旅館から巨大複合ビルを経てテナントビルへ

 名鉄名古屋駅ビル前でコメ兵が入居する「メイクラッシービル」などを所有、経営している、むさし企業。名古屋駅周辺の一角では、創業家の横山家が時代に合わせて商売をし、人々のにぎわいをつくってきた。現在は3代目社長の横山氏が、名古屋市を中心とする東海エリアで総合不動産事業を展開している。

 昭和初期の名古屋駅前は、伊勢神宮への参詣道だったことから旅館の需要が大きく、横山家は1933年から旅館「むさし家」を営んでいた。第二次世界大戦後に焼け野原となった名古屋駅前の土地を、祖父が名古屋市から取得するなどして事業を拡大。料亭やダンスホールなど、多様な事業を行っていた。

 65年、名古屋駅前の開発に伴い、名古屋市との協業で地上9階、地下3階建てのテナント・オフィスビルを竣工。これが名鉄名古屋駅前で地元商業の発展を支えた「菱信ビル」だ。60年代は駅前の再開発が進み、すでにつくられていた地下街とつなげて商業ビルを建てていくのが地域の求めでもあったという。

 「一時期は100以上ものテナントやオフィスが入っていました。地下階には地下街から直結の飲食店、地上1〜2階は銀行、3階以上はオフィスフロアです。誰もが知っているような、名だたる企業も多く入居していました。ビル経営業界ではビルのランク分けがありますが、1フロア500坪あった菱信ビルは高価格帯であるAクラスに分類されていたのです」と横山氏は振り返る。菱信ビルは名古屋駅前の経済発展の場であり、シンボルだったのである。

建て替えか売却かのピンチ周囲からのアイデアで乗り切る

▲名鉄名古屋駅周辺の商業を支えた菱信ビル 

 横山氏は、大学卒業後、ニューヨークで事業を行っていたが、2007年に家業の危機を父から伝えられた。帰国後はモルガン・スタンレーに勤務する傍ら、家業に関わるようになった。ニューヨークでの経営の知識やモルガン・スタンレーでの経験を生かし 、10年に29歳で父との共同代表に、13年には単独での代表になった。しかし、就任前後のビル経営は困難なものであった。

 07年の家賃はバブル期の2分の1以下に下落。また、昔はビルが少なかったため満室が当たり前だったが、03年ごろからのビルの供給過多により空室率も上昇。菱信ビルもその流れにはあらがえず、07年当時は20%超えの空室率となってしまっていた。家賃を下げると収支が合わない。売却しかないかもしれないと追い詰められた。

「当時の菱信ビルの収支は差し引きゼロ。規模が大きい分、支出も大きいのです。エレベーターの修繕だけで1億5000万円かかるなど、大規模修繕は億単位になります。旧耐震基準で築年数も50年超。しっかり修繕するのか解体するのか。建て替えるのか土地を売却するのか。会社を清算するのが現実的な選択肢に思えるほどの窮地に立たされました」(横山氏)

 立地がいいことから、売ってほしいという声はたくさんあったが、何とか再生したいと思った横山氏。頼ったのがモルガン・スタンレーでの勤務や地元企業との交流で築いた人脈だった。銀行の支店長や不動産会社、ビルを売却した人、再生した人に声をかけて、ビル経営のノウハウを語り合う勉強会を月に2回程度開き始めた。スタート時はプライベートスクールとして12~13人ほどの地元の経営者や、保険会社、開発会社、管理会社の担当者らに集まってもらったのだという。

「自分自身も家族信託に詳しかったので、その情報を共有しつつ、自身のビルの収支を示しながら知恵を借りました」(横山氏)。絶対に失敗できない、規模の大きい事業というプレッシャーの中、横山氏が頼ったのがその道の専門家たちだった。なお、この勉強会は14年に不動産の学校である不動産オーナー経営学院REIBS(リーブス)となり、横山氏が代表を務め、今も多くの経営者の学びの場となっている。

 とにかく情報がなかったという状況を周囲の人々に頼ることで打開。アイデアを得て、横山氏は行動を起こした。空室をすべて貸しスペースにしたのである。家賃は売り上げに応じた歩合制(60%)としたため、入居する側にすれば気軽に契約できる。これが当たった。空室が見る見るうちに埋まっていき、03年の状況程度にまで売り上げが回復したのだという。

 しかし、ピンチはまたもやってくる。10年に地上1~2階の銀行が退去。それだけで売り上げが30%ほど減ってしまったのだ。

 ここで横山氏は空いた地上階を12区画に分け、すべて飲食店に賃貸した。現状貸しであるため改装費用は店舗が負担、2年間の定期借家契約で、家賃は売り上げに応じた歩合制とした。勉強会から着想を得たアイデアだった。しかし、関係者からの反対もあったという。

「ビルは規模が大きいことと、何代かにわたって所有することが多いため、共有での経営になりがちです。当時は菱信ビルも複数の親族で共同所有していました。その中からは、『イメージが違う』と反対意見も出たのです。銀行だった場所が飲食店の立ち並ぶ雑居ビルになるわけですから、抵抗感も大きかったのでしょう。半ば押し切った形にはなってしまいましたが、立地も良いため飲食店の売り上げは期待を上回ったのです。実績を上げてからは反対の声が大きくなることはありませんでした」(横山氏)。この「名駅四丁目酒場メイヨン」は、地域の人が多く集まる昭和風横丁として愛され、大きな収益を上げた。

▲旅館を営んでいた昭和初期

「もうかればいい」ではない未来に残すべく建て替え

▲地元住民に愛された名駅四丁目酒場メイヨン。大きな収益を上げた

 1〜2階に飲食店を入れて再生し、地域にも愛され利益も上げていた菱信ビル。しかし、横山氏は解体を決めた。名駅四丁目酒場メイヨン誕生からわずか3年後のことだ。不動産経営者としては、将来性を重要視しなければならなかったのがその理由である。

「賃貸経営は収支を見ることで成り立ちます。その意味では再生後の菱信ビルは十分な成功事例だったでしょう。しかし、もっと大きな視点から見ると、この土地の将来にこの規模のビルは本当に必要かを考えなければなりません。大規模なビルを建てても収支が合う場所でも時代でもないと考えました。仮に利回り5%なら、利益は21年目からしか出ない。それは経営としてもリスキーですし、これから数十年後の名古屋駅前に大型のビルは恐らく求められていないでしょう。時代に合った方法で何を残すか真剣に検討しました」(横山氏)。ここで再び不動産オーナー経営学院REIBSから情報を得た。キーワードは予約契約と建築協力金だ。

 そもそもビルは、入居テナントに合わせた特徴を持っているほうが家賃を高く設定することができる。そのほうが入居側の使い勝手もいいからだ。せっかく新築するならば、入居予定のテナントとあらかじめ契約し(予約契約)、そのテナントに合わせたビルにするための資金援助(建築協力金)を得たほうが、互いにメリットが大きい。横山氏は、ビルの解体準備と同時に、共にビルを造り上げる企業を探した。そこで縁があったのが、ブランドリユース事業を営むコメ兵だった。

 コメ兵から得た建築協力金を建築資金にし、15年6月に菱信ビルを閉館。同年8月に解体を開始、17年4月にはコメ兵をシングルテナントとするビルに生まれ変わらせることができた。建て替えを機に土地を分割して共有持ち分を解消したことから、敷地面積、高さともコンパクトになったものの、時代に合ったビルとなった。コメ兵のイメージに合った高級感ある外装の2階建てのビルだ。

「コメ兵はビジネスパートナーです。ビル経営ではオーナーと店たな子こは家賃の件でもめることが多いのですが、家賃の値上げも値下げもしないと最初に取り決めて、良い関係でスタートを切ることができました。入居者のために建て、希望する場所に出したい大きさの看板を設置してもらって長期入居していただく。これがこれからのビル経営の基本なのではないかと思います」(横山氏)

 計画は当初の想定どおり進んだ。10年の時点で負債は3億円。それが建て替えにより15億円に達したが、20年には借入金の返済も完了した。家業再興の後は、複数のビルや商業用の不動産を取得して経営している。

また、不動産オーナー経営学院REIBSでは創業の地を売らずに再建できた当事者の一人として、多くの不動産オーナーへの助言やアドバイスを行っている。

▲コメ兵との予約契約と建築協力金により、菱信ビル跡地に竣工したメイクラッシービル。共有だった土地は分割して単独所有に

ビルが街をつくっていく地主として品格を持ち活動

 横山氏は、名古屋駅前エリアをつくっていく地主としての責任を感じているという。「ビルは規模が大きいので、その場所を特徴づけてしまうものです。つまり、ビルオーナーに景観や地域が左右される側面が大きいと思います。そのため、地主には責任や品格が問われると思うのです」(横山氏)。地域や街という大きな単位にまで視野を広げて、後世に胸を張って残すことができる街をつくることを目標としている。

 町内の防災や地域の問題を考えるのも、エリアの一員であるビルオーナーの役割だという考えから、名駅四丁目街づくり協議会を立ち上げた。横山氏の妻が代表を務めている。

 エリアの地主や企業が集まる機会を設けることで、地域の付き合いの中で解決できる問題もある。長く地域で経済活動を行っていれば、時に困難もあるだろう。そんなときには地域での共助が大事だ。これまでも、「最後は地域のコネ」でピンチを乗り切ってきたという。

 エリアの将来像について考え方を共有できる人や企業と共にコミュニティーをつくり、日々信頼関係を育む。自身のビル経営だけでなく、過去から続く歴史や関係性を守りながら、エリアを育てていこうと考えているのだ。「金銭関係だけの付き合いは面白くない」と話す横山氏の瞳は、未来をしっかり見据えている。

▲不動産オーナー経営学院REIBSで講師も務める横山氏。多くの不動産オーナーへアドバイスを行っている

メイクラッシービル(旧菱信ビル)の歴史

昭和初期 名古屋駅前で旅館むさし家を営む
   戦後 横山氏の祖父が焼け野原となった土地を取得し、事業を拡大
1965年 名古屋市との協業で菱信ビル竣工
2007年 家業の危機により横山氏が経営に関わる
  10年 横山氏が父との共同代表に就任。入居していた銀行が退去
  12年 銀行退去後のフロアに名駅四丁目酒場メイヨンをつくり、業績回復
  13年 横山氏が単独で代表に就任
  15年 菱信ビル閉館。解体後、コメ兵をパートナーにメイクラッシービルを竣工
  19年 むさし屋ホールディングスを設立し金融持ち株会社化

(2024年8月号掲載)

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