ビルオーナー物語:130年続く児玉家

賃貸経営ストーリー

130年続く児玉家の5代目
ビル経営を通じ地元の盛り上げを誓う

外苑東通りは、東京都港区麻布台の桜田通りから、新宿区早稲田の目白通りまでを南北に結ぶ全長7km、4~6車線の大きな道路だ。そんな外苑東通り沿いの信濃町にあるオフィスビルが「信濃町SANMO(サンモ)ビル」。所有・経営する児玉家は、時代に合わせてこの土地を活用してきた。

三茂(東京都新宿区)
児玉和俊代表取締役(45)

商店街からビジネスエリアに需要を見据えて建てたオフィス

 信濃町SANMOビル。児玉和利代表取締役が経営しているオフィスビルだ。東京メトロ丸ノ内線四谷三丁目駅からも、JR中央線信濃町駅からも徒歩6分で、外苑東通り沿いという好立地に立つ。1990年竣工、築35年の11階建てで、1~9階がワンフロアにシングルテナントのオフィスビル、10〜11階がオーナー一家の自宅兼事務所となっている。1階は約47坪、それ以外は1フロア約25坪で、現在は満室経営中だ。

▲ビル名でもある法人名「三茂」は、児玉家初代の茂三郎が由来だという

 もともと信濃町には、古くから続く商店街があった。現在ビルが立つ場所も、児玉家が代々三河屋酒店を営んできたところである。

 しかしこのエリアでは、バブル期に入る前から外苑東通り沿いの開発が急速に進んだ。それにつれて地元に根差した小さな商売では経営が立ち行かなくなった。人々が小さな商いを行いながら暮らす場所から、オフィスが立ち並ぶまちへと変わっていったのだ。「私は生まれも育ちも信濃町です。子どもの頃は、そば屋、呉服屋、団子屋などの昔ながらの商店が近所にありました。しかし、まちにビルが増えていくにしたがって様子が変わっていったのです。固定資産税も上がり、地上げもあったと聞いています。代々行ってきた商売だけでは生活できなくなったのであろう小さなお店は、代替わりなどを契機にだんだんと消えていきました」と児玉代表取締役は振り返る。

▲児玉家が代々営んでいた三河屋酒店

 昔ながらの商店では生き残れなくなったのは、児玉家も例外ではない。児玉家は代々続く酒店だったが、祖父の代にアパートを建て、酒店とアパート経営の収益で暮らしてきた。そして昭和から平成に変わるとき、ついに父は酒店を閉じたのだった。土地を生かして何を建てるか。立地を考え、父は90年にオフィスビル兼自宅を建てた。それが信濃町SANMOビルの始まりだった。

酒店を畳んだ4代目の父 土地の使い方を決断

 児玉家は明治中期から130年ほど続いている家だ。父は4代目、児玉代表取締役は5代目になる。「初代は茂三郎という人だと記録に残っています」(児玉代表取締役)。初代「茂三郎」にちなんで、祖父の代に、酒店を三茂として法人化。そこから、ビル名もSANMOとしたそうだ。

 父の代まで、児玉家に生まれたのはたまたま男の子が1人だけだった。そのため、これまでの家の歴史で相続によるもめ事が起きたことはないという。ただ、児玉代表取締役の祖父である3代目は若くして他界。早くに家業を継いだ父は、商売の何たるかを先代に学ぶこともかなわず、酒店、アパート、さらにビル経営に苦労していたという。「酒店を畳む決断も、その後何を建てたら家族が生活していけるかという選択も、父は1人で行わざるを得ませんでした。母は嫁いできた身ですし、私と妹は2人ともまだ子ども。父と共に土地の使い方を決めることまではできなかったのです。今から思うと大変なプレッシャーだったのではないかと思います」(児玉代表取締役)

▲信濃町SANMOビルの立地 

不動産会社での経験生かす 家族間で相続シミュレーション 

 児玉代表取締役自身は大学を卒業後、新卒で大手量販会社に就職。新規店舗の立ち上げや人員配置などを担当し、充実した毎日を送っていた。そうした中、25歳のときに父の体調が思わしくないとの連絡を受け、退職して家業に入ることになった。「いつかは実家のビル経営を継ぐ予定だと思ってはいたものの、まさかこんなに早いとは。そうはいっても、代替わりが近いとなっては仕方がない」と、やりがいを感じていた仕事から離れたという。

 それから2年ほどの間で、父の健康は回復。「結局あのときの父の体調不良の原因は不明です。サラリーマンの仕事に未練はありましたが、結果的に父が元気になって安心しました」(児玉代表取締役)

 父が健康を取り戻し、まだまだ社長として活躍できると感じたため、児玉代表取締役は2007年、不動産管理会社に就職。改めて将来に備えた武者修行に出ることにした。

 それから15年間、2社の不動産管理会社で働いた。その間に賃貸管理の実務を担当。業務の中では、賃料設定や修繕、相続の話題に触れることが多かったという。児玉代表取締役は、ほかの経営者の経営状況や相続について見聞きし実践的な学びを得たのである。特に相続については、多くの場合、家族間でなかなかざっくばらんに話すことができないのだと仕事を通して実感した。

 この経験を生かし、児玉家ではあえてストレートに相続について話すようにしている。「最初は父に対する『相続対策は何かやっているのか』という問いかけでした。初めの一言に勇気が必要だっただけで、後はスムーズ。『こういう対策があるけれども、お父さんはそれだと何年生きるのがベストか』そういった話すらできるようになりました。また3代目が早世したように寿命が年齢順に訪れるとは限りません。あらゆるシミュレーションをし尽くして、誰がどの順番で天に召されても、残された家族が問題なく相続できるような対策とはどういうものなのかを、日々考えています」(児玉代表取締役)

3000万円の大規模修繕 懸念の鉄柵を取り除く

▲足場を組んで行った大規模修繕工事

 21年に父が70歳を迎えたのを機に、児玉代表取締役は資産管理法人である三茂の社長に就任した。就任から4年間、周囲のオフィスビルの条件の調査や、入退去の際の賃料改定などを行ってきた。児玉代表取締役が成し遂げたことの中で一番大きかったのは、24年に行った大規模修繕だという。修繕にいくらかけられるのか、経営としてどこまでやればいいのか。その決断をして大規模修繕を実行するのが最初の大仕事だった。「どこで覚えてきたのか、事業者に頼らず自身で高層階のひび割れをパテで埋めていた父。ビルに対する愛着は私にもありますが、そのやり方をすべて受け継ぐわけにはいきません。築30年を超えたオフィスビルには、専門の工事事業者によるしっかりとした修繕が必要だと思い、資金繰りと事業者の選定を進めていきました」(児玉代表取締役)

 まず、自身が考えている修繕をすべて行った場合、いくらかかるのか見積もりを複数の事業者に出してもらった。次に、ビルの収益や空室リスクなどをシミュレーション。そこから得られた予算に合わせて、安全面への影響がないものを差し引いていったのだ。「いくらビル経営がほかの事業よりも安定している事業だといっても、空室リスクもあれば突発的な支出もあります。住居用の物件よりも空室が埋まりにくい分、ハイリスク・ハイリターンともいえるでしょう。不動産会社に勤務した経験も生かし、全体で3000万円程度であれば、無理なく返済していけるのではないかと考えました」と話す児玉代表取締役。

 利息なしで貸し付けてくれる新宿区の助成で2000万円、そのほかは信用金庫から借り入れた。工事内容は、大小合わせて200以上のクラックを直すことを含めた外壁修繕と、屋上の鉄柵を取り除くものだった。新型コロナウイルス下で動きが滞っているうちに見積金額はじわじわと上がっていったが、これ以上下がることはないだろうと児玉代表取締役は経営判断を下し、24年に工事は始まった。

 このときに取り除いた屋上の鉄柵は、児玉代表取締役と妹が幼少期に屋上で遊ぶ際の目隠しであり、きょうだいの安全を守った思い出の詰まったもの。しかし、時を経て腐食が進み、これ以上劣化すればいつか道路に落ちる可能性があるため、その前に撤去しなければと家族一同懸念していたものだった。

 新築時はビルの1〜2階だけほかの階よりも広く、出っ張った形だったが、1997年の道路拡幅事業で、1階と2階の一部を取り壊した。当初から道路拡幅を意識してビルを建てており、1〜2階をいずれ取り壊すこと自体は想定内だった。しかしこの工事により、1階から最上階までがまっすぐ垂直になってしまった。「それまでであれば、万が一鉄柵が落ちても2階の屋根部分に落ちて通行人は被害を受けない造りでした。しかし、道路拡幅後は鉄柵が壊れればそのまま道路に落ちてしまう状況です。これは新築当時は想像していなかったことで、父も内心ひやひやしていたと思います」(児玉代表取締役)

 大規模修繕は3カ月かかって無事に終了。鉄柵も取り除かれた。クラックや腐食もしっかり補修したことで、2024年夏の厳しいゲリラ豪雨でも特段の被害を受けることはなかった。

▲屋上の鉄柵を撤去し、落下の心配がなくなった

祭りに着る法被と共に 代々受け継いだ土地を守る 

 児玉代表取締役が暮らし、生計を立てる信濃町には須賀神社がある。毎年の例大祭には児玉代表取締役は法被をまとって参加する。この法被は、祖父から父が受け継ぎ、さらに児玉代表取締役へと渡されたものだ。「自分の子どもたちが大きくなって本格的に祭りに関わり始めると、気付いたことがありました。かつて住んでいた人たちが、この日は信濃町に帰ってくるのです。30人、40人と見知った顔の人たちと一緒に祭りを盛り上げていると、今はここに住んでいなくてもこの場所が彼らの、自分たちの故郷なのだと強く実感します」(児玉代表取締役)

 

 商店街の一員として、このエリアに必要とされるビルをこれからも守っていくこと。それから、今このエリアで暮らしたり生計を立てたりする人とまちを盛り上げること。さらに、このまちに今は住んでいないけれどまちを愛して祭りのたびに戻ってくるような人に恥じないまちを維持して発展させること。児玉代表取締役が引き継いだのは法被だけではない。まちの未来、この場所を離れた人のふるさとなのだ。肩にかかる重圧は大きいが、一つ一つ、確実に日々を積み重ねていく。

児玉家の家業の歴史
1894年 三河屋酒店開業
1954年 酒店を法人化し、有限会社三茂を設立
 88年 三河屋酒店閉店
 90年 信濃町SANMOビル竣工
 97年 道路拡幅事業により信濃町SANMOビルの1〜2階の一部を取り壊す
2024年 信濃町SANMOビル大規模修繕を実施

(2025年 2月号掲載)

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