ビルオーナー物語:テナントも時代の変化に対応

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渋谷の街に根を下ろして3代目テナントも時代の変化に対応させる

 100年に1度とうたわれている、JR山手線渋谷駅を中心とした渋谷区の再開発。オダビルディングサービス(東京都渋谷区)の小田雅弘代表取締役社長は街の変化を目のあたりにしている。

▲1923年 祖父、小田周太郎が渋谷初となる証券会社、小田商会(のちの小田証券)を開く

オダビルディングサービス
(東京都渋谷区)
小田雅弘代表取締役社長(64)

 日本で最も有名な繁華街、渋谷。スクランブル交差点から徒歩5分ほど、国道246号線沿いに「ODA(オダ)ビル」がある。「地上8階、地下1階建ての現在のビルが建つ前は、祖父である小田周太郎の自宅や店舗がありました」と話すのは3代目の小田代表取締役社長だ。

 1892年生まれの祖父、周太郎氏は、日本の株式証券取引のメッカである東京・日本橋兜町の黎れい明めい期から「株屋の小僧」として、取引会社の間を走り回っていた。「当時は、株の名義を書き換えるため、そうした小僧たちが東京中を走り回っていたそうです。作家の池波正太郎も同じ時代に同じ仕事をしており、池波の書いたエッセーを読むと祖父の生きた時代が見えてきます」と小田代表取締役社長は話す。

 小僧としての下積みを経て、1923年、周太郎氏は独立をすることに。そこで進出先として選んだのが渋谷だった。当時は、渋谷に店を構える証券会社はなく、周太郎氏が初めて。そこで、渋谷区の区議会議長を務めていた朝倉虎治郎氏におうかがいを立て、認められたことで晴れて渋谷初となる証券会社である小田商会(のちの小田証券)を設立することになった。

「朝倉氏といえば、渋谷のルーツをつくった名士。現在の「代官山ヒルサイドテラス」の地所も朝倉家のものです。祖父が朝倉家の許可を得て証券会社を立ち上げたことは、渋谷の100年史にも書かれています」(小田代表取締役社長)

▲再開発が進む渋谷の街

家業を立て直した「副業」

 だが、68年、祖父の死とともに多額の借金が判明。そのため、小田証券も大手の証券会社に吸収合併されることになった。叔父と父は、自宅の一部を貸家にしたり画廊に貸したり、あるいは自営業として麻雀荘や喫茶店を開いたりしながら家業の立て直しに努めた。

 そんな小田家再興のカギとなったのが「宝くじ事業」だった。もともと、終戦直前、当時の政府が戦費調達のために始めた「勝札」の指定販社の一つが証券会社だった。そこで、小田証券も副業として勝札の販売を行った。

この勝札のシステムを、戦後の復興支援にも生かそうということで宝くじの販売が決まった際も、小田家は引き続きその販売を担ったのだ。

 当初は決まった枚数のみを販売していたため、2日もあれば売り切れ。大きな売り上げにはならなかった。だが、予約制の「ジャンボ宝くじ」が世に出たことで、販売期間中は追加発行が可能になった。これが購入者の熱狂につながり売り上げが増加。折しも世の中は「バブル景気」。好景気に後押しされる形で、83年、ODAビルを竣工するに至った。

渋谷の変化に合わせた経営

「昔は渋谷といえばビジネスマンが多く往来する場所でしたが、今はそうともいえなくなっています」と小田代表取締役社長は話す。実際、渋谷の再開発を手掛ける大手のデベロッパーも、ビジネスの場所というよりは観光事業化にシフトしていく方向を見据えているのだという。

そうなると、事務所利用ばかりを念頭においた経営では早晩、立ち行かなくなってしまうだろう。「近隣を見回しても、100坪程度のオフィスビルが苦戦しています。例えば、旧耐震基準で建てられたビルの場合、渋谷であっても坪単価1万円を切ってしまうようなビルもあるのです」(小田代表取締役社長)

そこで、街の変化にビルオーナーも対応する必要が出てきたと考える。かつては同ビルも事務所としての利用ばかりだったが、近年では語学教室としての利用などもあるという。「今後は、例えば着付け教室などのテナントもいいと思っています」(小田代表取締役社長)。ビジネスだけではなくカルチャースクールのテナントも増やすことで、時代に合ったビル経営を続けていきたいと考える。

▲以前は祖父の自宅や店舗だった

(2024年6月号掲載)

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